AI文庫 / 第二作

北口、七時

留守番電話に残された、知らない女の声。「明日、七時。北口の時計の下で。傘を持ってきてください」。空は週末まで晴れの予報だった。

ミステリー / 掌編 2,055字(四百字詰 5.1枚) 2026.09.14
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 留守番電話に、知らない女の声が入っていた。

――明日、七時。北口の時計の下で。傘を持ってきてください。それだけで、いいんです。

 それだけだった。名乗りもなく、こちらの名前を呼ぶこともない。着信は午後三時二十分。芦田は会議の最中で、電話は鞄の底で鳴り終わっていた。

 間違い電話だろう、と思った。

 芦田は三十六歳で、一人で暮らしている。

 十年前、前の職場で、隣の席の男が経費の領収書を書き換えているのを見た。三を、八にしていた。芦田はそれを見て、見なかったことにした。男はその後も何事もなく働き、芦田は翌年、いまの会社に移った。誰にも咎められなかった。ただ、三を八にする手つきだけが、いまも頭のどこかに残っている。それ以来だ。

 窓の外は、雲ひとつない秋の夕方だった。天気予報を確かめると、週末まで晴れの印が並んでいる。傘の要る空ではない。番号を検索してみたが、何も出てこなかった。折り返すかどうか迷って、やめた。知らない相手に、あなたは間違えています、と教えてやる義理はない。

 それでも、寝る前にもう一度だけ聞き直した。

――それだけで、いいんです。

 落ち着いた、低い声だった。こちらが必ず来ると信じている声ではなかった。来るか来ないか、どちらでもいい、と言っているように聞こえた。

 そのどちらでもよさが、妙に残った。

 翌日、芦田は定時に会社を出た。

 北口の時計の下に着いたのは、六時五十分だった。傘は持っていた。玄関の傘立てから、いちばん古い黒いのを抜いてきた。誰かが置き忘れたものを届けに行くのだ、と自分に言い聞かせている。それが誰の何であるかは、考えないことにした。

 時計の下には、女が一人立っていた。

 三十くらい。紺のコートに、透明なビニール傘を持っている。空気は乾いていて、傘の出番はどこにもない。彼女は駅の出口ではなく、ロータリーのほうを見ていた。誰かを待っている顔だった。

 芦田は柱のそばに立ち、電話を見るふりをした。彼女の視線が一度、こちらに来た。顔ではなく、手元の傘を見た。それから、ほんのわずかに、頷いたように見えた。

 七時ちょうどに、男が来た。

 四十前後。コートの襟が立っていて、革靴がよく磨かれている。笑顔で近づいてきた。女は笑わなかった。彼女は鞄から茶封筒を出して、男に渡した。男はそれを受け取って、中を見ずに、内ポケットにしまった。それから何かを言った。女が首を振る。男がもう一度、同じことを言う。そういう動きが、二度繰り返された。

 三度目に、男が彼女の腕に手を置いた。

 振り払うほどの強さではなかった。ただ、そこから動けなくなる置き方だった。女の肩が、ほんの少し下がった。

 芦田は柱を離れた。

 何をするつもりもなかった。ただ、二歩ぶん近づいた。二歩目で、傘の先がコンクリートに当たった。思ったより大きな音がした。

 男が顔を上げた。

 こちらを見て、それから傘を見た。雨の気配もない駅前で、黒い傘を提げて立っている見知らぬ男を、彼はしばらく見ていた。笑顔が、少しずつ薄くなった。

 男は彼女の腕から手を離した。何か一言だけ言って、改札のほうへ歩いていった。振り返らなかった。芦田はそのあいだ、傘の柄を握ったまま、自分の心臓の音を聞いていた。何もしていない。二歩、近づいただけだ。それなのに手が汗ばんでいた。

 女はその背中が見えなくなるまで待ってから、芦田のほうを向いた。

「ありがとうございました」

「……いえ。間違い電話かと思ったんですが」

「間違えていません」

 彼女は言った。

「上の階の芦田さんですよね。管理組合の名簿で、お名前と番号だけ」

 同じマンションの、と彼女は続けた。三〇二号室。顔を合わせたことは、たぶん一度か二度。芦田は覚えていなかった。

「あの人は、別れた夫です。車の名義の書類を、今日渡すことになっていて。渡すものは渡しました。あの人が欲しかったのは、たぶん、それじゃなかったけれど」

 彼女は自分の腕を、コートの上から、少しさすった。

「人のいる場所を選んでも、あの人は平気で腕を掴む。でも、誰かが見ていると、掴めない。見ている人が、自分を見ていると分かると」

「それなら、頼んでくれれば」

「頼んだら、断られます。あるいは、警察に、と言われます。それだと、書類を渡せないまま終わる」

 彼女は自分の傘を、少し持ち上げた。

「だから、傘にしました。晴れの日に傘を持って立っている人は、わたしのために来た人です」

 芦田は何も言えなかった。傘を持って立っていただけの人間に、そんな役目があったとは思っていなかった。

「三人に電話しました。同じフロアと、上の階と。来てくださったのは、芦田さんだけです」

「……ほかの二人は」

「来ませんでした。それでいいんです。来ない人に頼んでも、仕方がないので」

 その言い方に、責める響きはなかった。

 ロータリーにバスが入ってきて、乗客が降り、散っていった。空には星が出ていて、傘はやはり要らなかった。

「帰りましょう」と彼女が言った。「同じ方向ですから」

 二人は並んで歩き出した。芦田は黒い傘を、雨の日と同じように提げて、歩いた。

了