AI文庫 / 第三作

ぬか床

施設に入る祖母から、四十年もののぬか床を預かった。三年続いたものが人生にひとつもない二十七歳の、五月から九月まで。朝、混ぜる。夜、混ぜる。夏に、一度、死にかける。

現代ドラマ / 短編 5,102字(四百字詰 12.8枚) 2026.09.15
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組

一

 ばあちゃんの家から持ち帰ったのは、段ボールひと箱と、琺瑯の容れ物がひとつだった。

 段ボールのほうは母が詰めた。ばあちゃんが施設に持っていかないもののうち、捨てるには忍びないもの。湯呑みが三つ、鋳物の急須、使いかけの糸、写真の束。写真はほとんど、僕が生まれる前に死んだじいちゃんのものだ。琺瑯のほうは、ばあちゃんが自分で詰めた。というより、もともと詰まっていた。

 ぬか床だった。

「ゆうちゃんが持っていきなさい」

 玄関先で、車椅子のばあちゃんはそう言った。転んで腰を痛めてから、家の中で暮らすのが難しくなって、駅の向こうの施設に入ることが決まっていた。八十四歳。ぬか床は四十年ものだと言う。ばあちゃんがこの家に越してきた年に始めて、一度も絶やしていない。

「お母さんじゃなくて」と僕は言った。

「あの子は嫌がるから」

 母は台所で洗い物をしていて、聞こえないふりをしていた。母がぬか床を嫌っているのは本当だった。においが服につく、毎日混ぜるのが面倒、と、僕が子どもの頃から言っていた。

「僕、たぶん枯らしますよ」

「枯らすのは植木。ぬか床は死ぬの」

 ばあちゃんはそう言って、笑った。

「死なせたら、それはそれで、あんたのぬか床だったってことだから」

 容れ物は思ったより重かった。抱えると、ひんやりして、酸っぱいような、香ばしいような、うまく言えないにおいがした。濡れた麻袋を、日向で干したような。子どもの頃、ばあちゃんの台所に入ったときの、あのにおいだ。

 帰りの電車で、僕はそれを膝の上に抱えていた。段ボールは母が車で運んでくれることになっていたが、ぬか床だけは、車に載せると母が嫌がるので、電車になった。蓋はきっちり閉まっているはずなのに、においは、していた。隣に座った人が、ひと駅で立った。気のせいかもしれない。気のせいじゃないかもしれない。僕は膝の上の琺瑯を、両手で押さえて、窓の外を見ていた。四十年を膝に載せていると思うと、駅ごとの揺れが、ひどく大きく感じられた。

 僕は二十七歳で、駅から歩いて十五分の1Kに一人で住んでいる。派遣の仕事を三つ変わって、いまは四つめの、物流会社の事務をしている。三年続いたものが、これまでの人生にひとつもない。観葉植物は二鉢枯らした。金魚は一週間だった。

 そういう人間に、四十年ものを渡すのは、どう考えても間違っていた。

二

 ぬか床は、最初の一週間で白くなった。

 表面に、薄い膜が張った。粉をふいたような、乾いた白さ。朝、蓋を開けたときに見つけて、僕はしばらく動けなかった。死んだ、と思った。四十年を、七日で。

 電話をすると、ばあちゃんはすぐに出た。施設の部屋には固定電話がついている。

「白いの。黒じゃなくて」

「白です。粉っぽい」

「それは膜。産膜酵母っていうの。混ぜが足りないと出るのよ。悪いもんじゃない。混ぜ込んじゃいなさい」

「混ぜていいんですか。そのまま」

「においは。シンナーみたいじゃない」

 鼻を近づけると、たしかに、少し、除光液のような刺激があった。

「じゃあ、表面をひとさじ捨てて、あとは混ぜる。塩を、ひとつまみ。それから、あんた、毎日混ぜてないでしょう」

「……三日ぐらい、空きました」

「夏は朝晩。冬は一日一回。混ぜるのは、底から。手ぇ突っ込んで、下のを上に持ってくるの。空気を入れてやらないと、下で嫌気の菌が増えて、においが変わるから」

 電話を切る前に、ばあちゃんは、捨て漬けをしたか、と訊いた。していなかった。何のことかも知らなかった。野菜の切れ端を漬けては捨て、漬けては捨てて、ぬか床を起こしてやるのだと言う。引っ越しで眠ってるから、と。冷蔵庫には、キャベツの外側の葉があった。それを、まず、埋めた。

 ばあちゃんの言うとおりにした。手を突っ込むと、ぬか床は冷たくて、指のあいだから、ゆっくりと押し返してきた。底のほうはしっとりと重く、上のほうはぱさついていた。全部を入れ替えるように混ぜる。手を抜くと、ぬかが爪のあいだに残った。

 においが、少し変わった。刺激が抜けて、まるくなった。

 その夜、きゅうりを一本、半分に切って埋めた。

 翌朝、取り出して、水で洗って、切って食べた。しょっぱくて、少し酸っぱくて、ちゃんと漬物の味がした。僕はそれを、立ったまま、台所で全部食べた。

 あとで訊くと、中には昆布と、鷹の爪と、山椒の実と、卵の殻が入っているという。それから、もうひとつ、何かが入っている。何か、と訊いても、ばあちゃんは教えてくれなかった。あんたが混ぜてるうちに、そのうち分かる、と言った。分からなかったら、それはもう、入ってないってことだから、とも。

三

 朝、混ぜる。夜、混ぜる。

 物流会社の事務は、朝八時半から夕方五時半までで、残業はほとんどない。伝票の入力と、電話の取り次ぎと、たまにフォークリフトの人たちにお茶を出す。難しいことはないかわりに、面白いこともない。前の三つも、だいたい同じだった。飽きたのか、飽きられたのか、よく分からないうちに、契約が終わる。

 ぬか床は、飽きても混ぜないといけない。混ぜないと、においで分かる。分かるから、混ぜる。

 図書館で、ぬか床の本を何冊か借りた。書いてあることは、だいたい、ばあちゃんが電話で言うことと同じだった。同じだと分かるために、借りていたのかもしれない。

 日曜の夜に、ばあちゃんに電話をするようになった。用事はない。ぬか床の様子を言って、ばあちゃんが、ああしろこうしろと言って、それで終わる。五分か、十分。切ったあとで、ばあちゃんと五分以上話したのは、いつ以来だろうと考えて、思い出せなかった。

 六月に入って、蒸し暑くなると、ぬか床は元気になった。混ぜるたびに、ふわりと膨らむような気配がある。きゅうりは半日で漬かるようになった。大根は一日。人参は二日。なすは色が抜けるから、ばあちゃんに聞くと、古釘を入れるか、ミョウバンだと言った。ミョウバンは薬局にあった。

 会社の昼休みに、弁当箱の隅に漬物を入れていくようになった。

「それ、自分で」

 隣の席の田島さんが訊いた。五十代の、ずっとこの会社にいる女の人だ。

「祖母のぬか床なんです。預かってて」

「へえ。ぬか床、いまどき」

 田島さんはそれきり何も言わなかったが、次の週、きゅうりを三本、袋に入れて持ってきた。実家の畑で採れすぎるのだという。僕はそれを漬けて、翌日、半分持っていった。田島さんは、ちょっと食べて、「若いね」と言った。

「若い、ですか」

「味が。まだ、ぬかの味がしてる」

 若い、という言い方が、僕にはよく分からなかった。漬物に若いも老いもあるのか。でも、田島さんの言い方には、悪意がなかった。まだ、これから、という言い方だった。

 僕はそれを、ばあちゃんに報告した。

「そうよ。若いのよ。あんたが混ぜてるんだから」

 電話の向こうで、ばあちゃんは愉快そうだった。

「あたしのぬか床は、あたしの手の菌で育ってるの。あんたが混ぜたら、あんたの手の菌が入る。だんだん、あんたの味になっていく。四十年ものだけど、いまは、四十年と、ひと月ちょっと」

「それ、ばあちゃんは嫌じゃないんですか」

「嫌なもんか」

 ばあちゃんはそう言って、それから、思い出したように付け足した。

「あんた、なんで敬語なの」

 僕は答えられなかった。いつからか、ばあちゃんに敬語を使うようになっていた。中学のあたりか。それは、たぶん、距離の話だった。

四

 七月の終わりに、僕は熱を出した。

 三十九度が二日続いて、三日目にやっと下がった。その三日、ぬか床のことは頭にあった。あったが、体が動かなかった。台所まで四歩なのに、その四歩が遠かった。

 四日目の朝、蓋を開けた。

 においが違った。酸っぱさが強く、その奥に、なにか、腐りかけの果物のような甘さがあった。表面は白い膜どころではなく、ところどころ、灰色にへこんでいた。手を入れると、ぬるかった。夏の台所の温度を、そのまま吸っていた。

 母に電話しようか、と一瞬思った。思って、やめた。母に言えば、だから言ったのよ、で終わる。それは正しいけれど、正しいだけだ。

 ばあちゃんに電話をかけた。

「あんた、声が変ね」

「熱、出してました。三日。混ぜてません」

 ばあちゃんは、少し黙った。

「灰色のところは。ふわふわしてる」

「してます。少し」

「それはカビ。そこだけ、まわりごと、深めに取りなさい。上から三センチ、四センチ。スプーンで。もったいながらないで。昆布は捨てな。あれはもう駄目。残りをよく混ぜて、塩を多めに。それで、二、三日、なんにも漬けないで、混ぜるだけ。それでも甘いにおいが抜けなかったら――」

 ばあちゃんは、そこで言葉を切った。

「抜けなかったら」

「そのときは、そのときよ」

 僕は灰色のところを、周りごと、大きめに取った。ぬかは、思ったよりたくさん減った。昆布は、引き上げると、ぬるぬるして黒かった。四十年のうちの、何年ぶんかは知らない。捨てた。残りを混ぜた。塩をふたつまみ、三つまみ。混ぜながら、汗が落ちた。熱が下がったばかりの体は、まだ重かった。

 三日、混ぜるだけを続けた。

 四日目に、きゅうりを漬けた。翌朝、取り出して、食べた。

 しょっぱかった。酸っぱさは、前より強かった。夏の前の味では、もうなかった。でも、甘いにおいは、しなかった。

 僕はそれを、ばあちゃんに、報告した。

「生きてた」

「そう」

 ばあちゃんは、そう言っただけだった。

五

 八月の末、契約が来年の三月まで延びた。

 派遣会社の担当から、電話で知らされた。先方が希望している、と。三か月ごとの更新が、十月から三月までの半年になる。理由は言われなかった。訊いても、担当は知らないだろう。翌日、いつもより多めに漬物を持っていって、田島さんの机に、黙って置いた。田島さんは、黙って食べた。

 九月に入って、ばあちゃんに会いに行った。

 施設は駅の向こう側の、静かな道の奥にあった。四階建てで、一階に食堂と、小さな庭がある。ばあちゃんの部屋は三階の、東向きだった。窓の下に、庭が見える。腰は良くならないけれど、車椅子の扱いがうまくなったと、母が言っていた。

 僕は保冷バッグに、タッパーを入れて持っていった。きゅうりと、なすと、大根。きゅうりは半日、なすは一日、大根は二日。この夏の、いちばんうまく漬かった三つ。

 ばあちゃんは、窓際に車椅子を寄せて、庭を見ていた。

「よく来たね」

 保冷バッグを、と言ったら、ばあちゃんは一度、聞き返した。去年より、耳が遠くなっている。

 僕はタッパーを開けて、割り箸を渡した。ばあちゃんは、きゅうりを一切れ取って、口に入れた。時間をかけて噛んで、飲み込んだ。それから、なすを一切れ。大根を一切れ。

 僕は、その顔を見ていた。

「若いね」

 ばあちゃんは言った。

「田島さんにも言われました――言われた」

「そりゃ言われるよ。あんたの味だもの」

「ばあちゃんの味じゃ、なくなってる」

「なくなってはいない。奥のほうに、まだいる。でも、上のほうはもう、あんた」

 ばあちゃんは、もう一切れ、きゅうりを食べた。

「昆布、捨てたね」

「捨てた」

「そう」

 それだけだった。怒りも、惜しみもしなかった。ただ、食べて、分かって、そう、と言った。

「ばあちゃん」

「なに」

「なんで、僕だったの」

 ばあちゃんは、庭のほうを見た。

「あんたが、いちばん、においを気にする子だったから。小さいとき、台所に入ってきて、くさい、くさい、って。でも、出ていかなかった。くさいって言いながら、蓋を開けて、覗いてた」

 そんなこと、覚えていなかった。

「それに」とばあちゃんは言った。「あんたのお母さんは、混ぜなくても平気な子だから。それはそれで、いいの。あの子はあの子で、ちゃんとやってる」

 ばあちゃんは、大根をもう一切れ食べて、ゆっくり噛んでから、言った。

「これ、置いていって。夕飯のとき、食べるから。ここの漬物は、味が薄いのよ」

 タッパーをひとつ、ばあちゃんの小さな冷蔵庫に入れた。中には、施設の売店で買ったらしいヨーグルトと、母が持ってきたのだろう、みかんのゼリーが並んでいた。その隣に、僕の漬けたきゅうりが入った。

 僕はもうひとつのタッパーの蓋を閉めて、保冷バッグにしまった。帰ったら、また混ぜないといけない。九月でも、まだ朝晩だ。涼しくなったら、一日一回でよくなる。冬になったら、冷蔵庫に入れて休ませてもいいと、ばあちゃんは言っていた。

 春になったら、また、朝晩。

 施設を出ると、道の先に駅が見えた。線路の向こうが、僕の住んでいる側だ。保冷バッグは軽くなっていて、その代わりに、指先に、ぬかのにおいが残っていた。

 家に着いて、鞄を置いて、手を洗う前に、台所に立った。蓋を開けた。手を入れた。

了