一
ガキがスマホを見ていた。
それが最初で、それが全部だった。音は、思ったより小さかった。がん、というより、こん、だった。荷台で段ボールがひとつ倒れる音のほうが大きかった。ブレーキを踏んだのは、当たったあとだった。踏んでから当たった、と警官には言った。ガキがスマホを見ていたことは、三回言った。三回とも警官は頷いて、書かなかった。書いたのは、時刻と、場所と、沼田の免許証の番号と、自転車のガキの名前だった。白石陸。十六歳。手首を押さえて、道路の縁石に座っていた。泣いてはいなかった。スマホは、割れていなかった。ガキのスマホというのは、なぜか割れない。
「一時停止は」と警官が訊いた。
「したよ」
「完全に」
「したって言ってんだろ」
警官はまた頷いて、書かなかった。
救急車は、沼田が呼ぶ前に、通りがかりの誰かが呼んでいた。ガキは乗るのを嫌がって、結局乗った。乗るときに、一度だけ沼田を見た。何を見たのかは分からない。
配送車は交差点の真ん中で、ハザードを点けたまま止まっていた。丸協運輸の、二トンの箱車。荷台にはまだ、午後の分の荷物が二十七個ある。沼田はそれを、頭の中で数えていた。数えても仕方がないのに、数えていた。
十月の頭の、よく晴れた午後だった。南口側の住宅地の、一時停止の標識がある十字路。沼田はこの道を、十二年、週に三度は通っている。この十二年、事故は一度もない。無事故手当が、月に八千円。十二年分がいくらになるかは、数えたことがある。それが、いま、救急車に乗っていったガキの手首ひとつで、どうにかなろうとしている。
ガキの母親が来た。自転車で来た。買い物の袋を前かごに入れたまま、ヘルメットをかぶったまま、救急車の去ったあとの道路を見て、それから沼田を見た。沼田は、目をそらさなかった。そらしたら負けだと思った。
「すみません」と沼田は言った。
言ってから、しまった、と思った。すみません、は認めたことになる。会社の研修で、そう習った。事故の現場で謝るな。謝るのは保険会社の仕事だ。
「すみませんじゃ、ないでしょう」と母親が言った。
その通りだった。だから沼田は、もう何も言わなかった。
二
会社に戻ると、課長の野村が待っていた。
「ドラレコは」
「ある」
「出せ」
「壊れてる」
野村は沼田の顔を見た。沼田は、野村の後ろの壁の、安全運転週間のポスターを見た。壊れてはいない。SDカードは、事故の直後に抜いて、作業ズボンの尻のポケットに入れてある。理由は、自分でもよく分からない。抜いた、それだけだ。カードには、二トン車が一時停止の白線の手前で、止まらずに、速度を落としただけで交差点へ入っていく映像が入っている。沼田はそれを見ていない。見なくても分かる。十二年、そうやって通ってきたのだから。
野村は、しばらく黙っていた。会社のカードだ。出てくれば、会社の話になる。出てこなければ、沼田の話で済む。野村がそう計算しているのが、顔で分かった。
「壊れてる、な」と野村は言った。「じゃあ、そう書いとけ」
事故報告書の用紙を持ってきたのは、事務の田島だった。五十いくつの、この会社にずっといる女。用紙を沼田の机に置いて、ボールペンを添えて、何も言わずに行こうとした。
「なんだよ」
「なにも」
「なにか言えよ」
田島は立ち止まって、沼田を見た。
「沼田さん、字、丁寧に書いてね。前のとき、読めなくて返されたから」
「前のときって、いつだよ」
「三年前。バンパー擦ったやつ」
覚えていなかった。あれは事故に入らない。自損だ。手当は減らなかった。
沼田は報告書を書いた。用紙は三枚綴りで、二枚目は保険会社に行く。ガキがスマホを見ていたこと。飛び出してきたこと。一時停止をしたこと。三つとも書いた。三つ目だけ、字が少し乱れた。
書き終えて顔を上げると、田島が、タッパーを机の端に置いていた。
「なんだよ、これ」
「漬物。小谷くんが漬けたやつ。多かったから」
小谷というのは、去年から事務にいる派遣の若いのだ。いつも指先が変なにおいがする。沼田はタッパーの蓋を開けて、きゅうりを一切れ、指でつまんで食った。しょっぱかった。しょっぱくて、少し酸っぱかった。うまいかどうかは分からなかった。腹が減っていたので、もう一切れ食った。
その夜、アパートで、SDカードをテーブルに置いた。小指の爪くらいの、黒い板。見ようと思えば見られる。パソコンは持っていない。スマホに差す口もない。コンビニで読めるかどうかは知らない。知らないままにしておくのが、いちばん楽だった。テレビを点けて、カードをテーブルの端に寄せて、寝るときに、またポケットに戻した。
翌週、実況見分があった。警官が二人来て、沼田は交差点に立たされた。ここで止まりました、と白線の手前を指した。警官はそこにチョークで印をつけた。印は、白線の五十センチ手前だった。自分で指したのに、遠すぎると思った。
三
保険会社から電話が来たのは、実況見分の二日後だった。
「損害調査部の、芦田と申します」
若い声だった。若いといっても、三十代の半ばか、もう少し上か。落ち着いているというより、抑揚がない声だった。事故の状況を確認したい、と言う。
「報告書、読んだんだろ」
「読みました。それで、いくつか」
「ガキがスマホ見てたんだよ。それが全部だ」
「はい。報告書にそう書いてあります」
「だったら、それでいいだろ」
「相手方の申告では、自転車は歩道から車道に出るときに一度止まって、左右を見た、となっています」
「嘘だ」
「はい。食い違っています。ですので、確認しています」
沼田は電話を握り直した。相手が怒らないので、こっちの声の持っていき場がない。怒鳴ると、向こうは、はい、と言う。はい、と言われると、何を言ったのか自分でも分からなくなる。
「沼田さんの進行方向の、一時停止の標識は、見えましたか」
「見えたよ。止まった」
「完全に止まりましたか」
「止まったって言ってんだろ」
「分かりました。そう書いておきます」
沼田は、その言い方に引っかかった。そう書いておきます。書くのは、こっちの言ったことだ。信じたとは言っていない。
「ドライブレコーダーは」
「壊れてる」
「壊れているのは、本体ですか、記録媒体ですか」
「知らねえよ。壊れてるんだよ」
「分かりました」
それきり、芦田はドラレコの話をしなかった。しないのが、かえって嫌だった。訊いてこないということは、訊かなくても分かっている、ということだ。あるいは、ただ、次の電話が待っているだけか。どっちにしろ、沼田の尻のポケットのカードは、この電話の間じゅう、そこにあった。
「相手方は、手首の骨にひびが入っています。全治三週間。自転車は前輪とフレームの交換で、見積もりが四万二千円」
「四万二千円で、新品買えるだろ」
「そうです。ですので、時価で計算します。二万円前後になると思います」
沼田は黙った。相手が、自分の側の数字を、下げた。それが、なぜか、いちばん腹が立った。
「過失割合は、これから出します。示談は、治療が終わってからになります。沼田さんの側に、いま何か付け足すことは」
「ない」
「では、また連絡します。すみません、別の電話が入っていますので」
電話は、向こうから切れた。沼田は、芦田という男の顔を想像しようとして、できなかった。数字だけを訊く男だった。あの男は、こっちが嘘をついていると、たぶん知っている。知っていて、はい、と言った。書いておきます、と言った。
沼田は机を叩いた。田島が振り向いた。
「なにも」と沼田は言った。
四
土曜の午後、沼田は、白石の家に行った。
会社には言っていない。野村に言えば止められる。示談は保険会社を通す。当事者同士で会うな。研修で習った。研修で習ったことは、だいたい正しい。正しいことは、たいてい、やりたくない。
菓子折りは、駅前の和菓子屋で買った。三千二百円。何がいいのか分からなかったので、店の女に、謝るときのやつ、と言った。店の女は何も訊かずに、白い箱を包んだ。包むのが遅かった。沼田は、遅えよ、と言った。店の女の手が、一瞬止まって、また動いた。言わなくていいことだった。言った。
車は、交差点の手前のコインパーキングに置いた。交差点を、歩いて渡った。一時停止の標識の下で、足を止めた。止まってみると、標識の柱に、市議選のポスターの剥がし残しがあるのが見えた。誰の顔かは、もう分からない。十二年、見たことがなかった。
白石の家は、事故の交差点から二百メートルのところにあった。二階建ての、どこにでもある家だった。門柱にインターホン。押した。
「はい」
母親の声だった。
「丸協運輸の、沼田です。先日の……陸くんの、ことで」
沈黙があった。長い沈黙だった。インターホンは切れていない。向こうで、母親が、何かを決めているのが分かった。
「お帰りください」
「あの、一言だけ」
「保険会社を通してください。そう言われています」
「分かってます。分かってるけど、おれ、あの」
言葉が出なかった。何を言いに来たのか、実は、決めていなかった。すみませんを言いに来た。それは、現場で言った。すみませんじゃないでしょう、と言われた。その通りだった。じゃあ、何を言うのか。
「ガキが……息子さんが、スマホを見てたのは、本当です」
言ってしまった。
インターホンが切れた。
沼田は、門柱の前に立っていた。菓子折りを持ったまま。玄関の扉は開かなかった。二階の窓のカーテンが、少し動いた。動いただけだった。誰の顔も見えなかった。
菓子折りを門柱の上に置こうとして、やめた。置いたら、投げ返されるか、腐るか、どっちかだ。持って帰った。コインパーキングまで歩いて、車に乗って、帰りの道で、助手席に置いた白い箱が、カーブのたびに滑った。
家に着いて、箱を開けた。最中だった。八個。一個食った。あんこが、甘かった。
五
過失割合は、八対二だった。
沼田が八。月末に来た芦田からの書類には、そう書いてあった。ドライブレコーダーの映像は提出されず、現場の状況と双方の申告から判断した、とあった。一時停止については、相手方の申告と、交差点の見通しから、完全な停止はなかったと推定される、とあった。推定される。断定はしていない。
警察のほうは、断定した。点数は六点。三十日の免停。通知の葉書は、会社ではなくアパートに来た。それは、会社の規定とは、別に来た。
野村は書類を見て、まあそんなもんだろ、と言った。
「三か月、倉庫な」
「なんでだよ」
「規定だ。過失七以上は三か月、内勤。手当は三か月停止。それから、無事故は、ゼロからだ」
十二年が、ゼロになった。
沼田は、それについて、何か言おうとして、やめた。言っても仕方がない。
示談は、ガキの治療が終わってからだと芦田は言った。それも、保険会社同士で作られる。沼田の判子は要らない、とも言った。白石の母親の判子と、保険会社の判子で、済む。
SDカードは、まだ、作業ズボンのポケットにある。洗濯のたびに出して、乾いたらまた入れている。
六
倉庫の仕事は、退屈だった。
十一月に入っていた。朝、最中を一個食って出た。あと四個。
事務所を通ると、小谷が伝票を打っている。沼田は挨拶をしない。小谷もしない。小谷の机のあたりに、あのにおいがある。沼田はそれを、一度嗅いでから、通り過ぎようとして、立ち止まった。
「おい。伝票、素手で触るな。においが移る」
小谷は顔を上げて、沼田を見て、何も言わずに、机の引き出しから軍手を出して、はめた。それから、また伝票を打ち始めた。沼田は、自分の言ったことが、言う前から嫌だった。言った。あいつの漬けたものを、こっちは食っている。向こうは知らない。
フォークリフトには乗せてもらえない。手で運ぶ。パレットに積む。ラップを巻く。伝票を貼る。沼田は五十手前で、腰が悪い。三日で、湿布のにおいがするようになった。
昼休み、事務所の裏で、缶コーヒーを飲んでいると、田島が来た。またタッパーを持っている。
「もういいよ」
「大根。今日は大根」
田島はタッパーを沼田の横に置いて、自分も座った。座るとは思わなかった。
「沼田さん、白石さんち、行ったでしょ」
沼田は缶を持ったまま、田島を見た。
「なんで知ってる」
「野村さんに、白石さんのお母さんから電話があったの。二度と来させないでって」
「……そうか」
「野村さん、沼田さんには言ってない。言うと、また行くから、って」
沼田は、缶コーヒーを飲んだ。冷めていた。
「行かねえよ」
「そう」
「行かねえ。行っても、しょうがねえだろ」
「そう」
田島は、それ以上は何も言わなかった。それが、沼田には、いちばん応えた。
沼田は、大根を一切れ食った。黄色かった。
「なんでこんな色なんだ」
「知らない。小谷くんに訊いて」
「訊かねえよ、あんなやつ」
田島は、タッパーの蓋を閉めて、事務所に戻っていった。
午後、三番のパレットを五番の場所に置いた。ラップを巻いて、伝票を貼ってから、倉庫の向こうで、フォークリフトの若いのが叫んだ。
「沼田さーん、それ五番。三番はこっち」
「うるせえ」