AI文庫 / 第七作

三〇三号室

留守番電話に、知らない女の声。「傘を持ってきてください」。三〇三号室の木内夫婦は、詐欺だと決め、不倫だと決め、家じゅうの傘を押入れに上げた。夫は煙草を買いに北口へ行く。五年前にやめた煙草を。「北口、七時」を、隣の部屋から見た話。

喜劇 / 短編 6,177字(四百字詰 15.4枚) 2026.09.17
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一

 留守番電話が、女の声で喋った。

――明日、七時。北口の時計の下で。傘を持ってきてください。それだけで、いいんです。

 木内律子は、電話が鳴っているあいだ、電話機の横に立っていた。出なかったのは、番号が見たことのないものだったからで、知らない番号には出ないというのは、律子が三年前にテレビで覚えた決まりごとである。三年前にテレビで覚えたことを、律子は三年守る。出ないでいると相手はあきらめるか、留守電に吹き込むかで、吹き込むのはたいてい歯医者と宅配便で、女の声で傘の話をされたのは初めてだった。

 三時十分。律子はもう一度再生した。それからもう一度。四回目で、夫の携帯に電話した。

「あんた、いまどこ」

「公民館」

「帰ってきて」

「まだ二局目だ」

「女から電話よ」

 沈黙があって、木内正夫は、誰から、と言った。

「知らない女。傘持って来いって」

「知らん」

「知らんじゃないでしょ。帰ってきて」

 正夫が帰ってきたのは四時半で、将棋は二局目の途中で投げてきたと言ったが、律子はそれを信じていない。二局目は負けていたのである。玄関で靴を脱ぐ前に、正夫は、で、と言った。律子は再生ボタンを押した。

――それだけで、いいんです。

「若いな」と正夫は言った。

「三十くらいでしょ、あれは」

「三十くらいの女に、傘持って来いって言われる覚えはない」

「私にだってないわよ。じゃあ誰宛てなの」

「間違いだろう」

「間違いで、傘は言わないでしょ」

 律子には確信があった。テレビで見たのだ。駅前で受け渡しをする詐欺の連中は、目印を決める。赤い帽子とか、紙袋とか。晴れの日の傘なら、これほど分かりやすい目印はない。傘を持って行けば、向こうから寄ってきて、何かを渡される。渡されたら、もう共犯だ。ここまでを律子は、正夫が靴を脱ぎ終わるまでに言った。

「だから、行かないの。傘も出しちゃ駄目」

「誰が行くか」

「あんた、行きそうだもの。三十の女って聞いたら」

「聞いたのはおまえだ」

 律子は玄関の傘立てから、家にある傘を全部抜いて、押入れの上の段にしまった。正夫の黒いのと、自分の花柄のと、折りたたみが二本。正夫は、明日雨だったらどうする、と言い、律子は、週末まで晴れの予報だと答えた。それは本当だった。

 夕食のあいだ、話は傘のことばかりだった。正夫は、警察に言うか、と一度言い、律子は、何て言うのよ、と返し、正夫は黙った。娘に電話しようかとも思ったが、娘は千葉で孫の夜泣きにつかまっていて、傘の話をしたら怒られるに決まっていた。

 留守電は消さなかった。何かあったときの証拠になる、と律子が言った。何かとは何か。二人とも、そこまでは考えていない。

二

 翌日の六時四十分に、正夫は上着を着た。六時四十分に上着を着るような用事は、この家には一つもない。

「どこ行くの」

「煙草」

「やめたでしょ」

「ガムだ」

「ガムなら下のコンビニでいいでしょ」

「駅前のは種類が多い」

 律子はそれで納得した。六十七の男が何にこだわりはじめるかは分からないもので、去年は突然、靴下の丈にこだわった。あれに比べればガムはまだ分かる。

 上着を着てから、正夫は押入れの前に立った。上の段を見上げた。傘は四本とも奥にあって、手を伸ばしても届かない。椅子は台所にある。台所には律子がいる。正夫は上の段を見上げたまま三秒ほど立って、それから玄関に行った。傘は要らない。見に行くだけである。見るだけなら手ぶらでいい、というのがこの人の理屈で、六十七年、だいたいこの理屈でやってきた。

 北口には六時五十五分に着いた。

 時計の下に、女が一人立っていた。紺のコートに、透明なビニール傘。正夫はそれを、バス乗り場のベンチの端から見た。バスを待つ人が四、五人立っていて、その向こうだった。ガムは買っていない。買うつもりだったが、コンビニに着く前に女が目に入って、そのまま座った。

 見たことのある女だ、と思うのに、少し時間がかかった。エレベーターだ。同じ三階で、たまに一緒になる。会釈をする。三〇二だ。春に越してきた、一人の。

 女は駅の出口ではなく、ロータリーのほうを見ていた。それから正夫は、柱のそばに男が立っているのに気づいた。携帯を見ている。手に、黒い傘。

 四階の、あの男だ。

 名前は知っている。芦田。管理組合の理事を回り番でやったとき、名簿で見た。四〇二。挨拶をしない男で、エレベーターで一緒になっても、こちらが会釈をすると、目だけ動かす。それが五年。正夫はあの男を、嫌いというほど知らない。

 その芦田が、晴れた日に、黒い傘を持って、柱のそばに立っている。

 女が一度、芦田のほうを見た。顔ではなく、傘を見た、と正夫には見えた。それから女は、少し頷いた。

 合図だ。

 正夫はベンチの端で、膝の上に手を置いた。ガムは買っていないので、口が寂しい。

 七時ちょうどに、男が一人来た。四十くらい。コートの襟を立てて、靴が光っている。正夫の靴は光ったことがない。男は笑いながら女に近づいた。女は笑わなかった。女が鞄から封筒を出して、男に渡した。男はそれを内ポケットに入れた。中を見なかった。

 金だ、と正夫は思った。中を見ずにしまうのは、いくら入っているか知っている人間だ。

 男が何か言った。女が首を振った。男がまた言った。女がまた首を振った。三度目に、男が女の腕を掴んだ。

 修羅場だ。

 正夫はベンチから腰を浮かせ、浮かせたまま止まった。他人の夫婦のことだ。正夫は昔、義弟が正月にああいう掴み方をするのを見た。そのとき正夫は、台所に立った。

 芦田が柱を離れた。

 二歩、歩いた。傘の先が、カン、と鳴った。ベンチまで届く音だった。バスを待っている人が何人か、そちらを見て、すぐ目を戻した。

 男が芦田を見た。傘を見た。しばらく見ていた。それから、女の腕を離した。一言だけ言って、改札のほうに歩いていった。一度も後ろを見なかった。何と言ったのか正夫には聞こえなかったが、ああいう男が最後に言うのは、また来る、と相場が決まっている。

 正夫は腰を下ろした。

 女と芦田が、何か話している。聞こえない。女が自分の腕をさすっている。芦田は傘を握ったまま突っ立っている。突っ立っているだけだ。それでも、あの男は五年、正夫には目しか動かさなかったのに、女には口を動かしている。バスが一台入ってきて、降りた客がベンチの前を通った。正夫は膝を引いた。それから二人は、歩き出した。並んで。マンションの方向だった。

 正夫も歩き出した。帰る方向が同じなのだから仕方がない。三十メートルほど後ろを歩いた。途中、自動販売機の陰に半分だけ体を入れて、すぐ出た。入れる必要はなかったが、入れた。二人は八分間、ほとんど喋らずに歩いた。並んで歩いているのに、歩幅が合っていない。隠しているからだ、と正夫は思った。人目のあるところではわざと歩調を合わせない、というのを、正夫はどこかで聞いたことがある。

 エントランスで、二人がエレベーターに乗るのを見送ってから、正夫は郵便受けをのぞくふりをした。何も入っていなかった。

「三〇二だ」

 玄関を開けるなり、正夫は言った。律子は電話機のそばにいて、また留守電を聞いていたらしかった。

「三〇二って」

「電話の女。三〇二の、一人の。時計の下に立ってた」

「あんた行ったの」

「ガム買いに行ったら、いた」

「ガムは」

「売り切れだ」

 正夫は、見たことを話した。傘。芦田。封筒。男。腕。傘の音。並んで帰ったこと。律子は途中から座り、途中から立ち、途中からお茶を淹れて、淹れるのを忘れた。

「じゃあ、あれね」と律子は言った。「不倫ね」

「四〇二とな」

「あの男が旦那で、封筒が手切れ金」

「そうだ」

「傘が合図。晴れの日に傘。うまいこと考えるわ」

「二人で決めたんだろう」

「それで、なんでうちに電話するのよ」

 正夫は、それを考えていなかった。考えていないことを訊かれると、この人は断定する。

「間違いだ」と正夫は言った。「四〇二にかけるつもりで」

「番号、似てないでしょ」

「名簿で見て、指が滑ったんだ」

「あんた、指が滑って女に電話したことあるの」

「ない」

 律子はそれで納得した。詐欺の線は、その夜のうちに消えた。不倫と手切れ金のほうが、面白かったのである。

 傘は、押入れから出さなかった。

三

 冬のあいだに、正夫は二人が並んで歩くのを三度見た。どれも駅からの道で、七時過ぎで、二人は喋っていなかった。

「喋ってないのよ、それが怪しいの」と律子は言った。「普通の知り合いなら喋るでしょ」

 一月、律子はエレベーターで三〇一の男と一緒になった。二十代の後半で、耳に大きなヘッドホンをして、いつも何かを聞いている。何を聞いているのかは、律子の知るところではない。律子は三階までの短い時間で、思いきって声をかけた。

「あの、去年の秋、変な電話ありませんでした。傘の」

 男はヘッドホンを片方ずらした。

「傘」

「留守番電話に。女の人の声で、北口の時計の下に来いって」

「ああ」と男は言った。「ありましたね。消しました」

「消したの」

「知らない番号は、途中まで聞いて消すんで」

 三階でドアが開いて、男は、じゃ、と言って三〇一に入った。律子はしばらく廊下に立っていた。廊下は寒い。

「三〇一にもかかってたのよ」

「そうか」

「三階だけよ。あんたの間違い電話の説、二軒に間違えるってどういうことよ」

「名簿の並びだ。三〇一、三〇二、三〇三で、上下の行にかけたんだ」

「自分のところに自分でかけるの」

「自分は飛ばしたんだろう」

「じゃあ四〇二にもかかってるわよ、あんたの説なら」

「四〇二にかかってたら、どうなんだ」

「どうって」

 どうもしなかった。二人とも、四〇二に訊きに行く気はない。目しか動かさない男に、傘の話はできない。

 律子は納得しなかった。納得しないまま、しばらく考えて、こう言った。

「見せたかったのよ」

「何を」

「ああいう人はね、見せたいの。自分がどれだけ大変か。傘持って来いって言えば、誰か来るでしょ。来た人の前で、旦那と揉めて、それを四〇二が助けるの。全部、見せるためよ」

「誰に」

「私たちに」

四

 四月の第三日曜、正夫は共用部の掃除当番だった。年に二回回ってくる。朝の九時、エントランスの掃き掃除をしていると、エレベーターが下りてきて、三〇二の女と芦田が出てきた。二人一緒に。

 正夫は箒を止めなかった。止めると見ているのが分かる。止めないで顔だけ向けている男が、見ていないように見えるわけでもない。

 女は紺のコートではなく薄手の上着で、手ぶらだった。芦田は何も持っていない。芦田がエントランスの外で立ち止まって、空を見上げた。晴れている。それから女に何か言った。短く。女も短く答えた。芦田はもう一度空を見て、それから歩き出した。

 傘のことだ、と正夫は思った。今日は旦那が来ない日だ。

 二人は駅と反対のほうへ歩いていった。川の方向だった。正夫は箒を動かしながら、あそこは何もないぞ、と思った。川と、橋と、土手の桜が散ったあとの、何もない道だ。何もないところに二人で行くのは、何かある二人である。

 午後の三時に、二人は帰ってきた。正夫は掃除を終えて、律子と一緒に、ベランダから見た。律子が、来た、と言って正夫を呼んだのだ。三階のベランダから道が見えるのは、この夫婦が部屋を日当たりで選んだからで、日当たりのいい部屋は、道もよく見える。

 女が小さい紙袋を提げていた。細長い、手のひらからはみ出るくらいの。

「指輪だ」と正夫は言った。

「あんな細長い袋に指輪が入るもんですか。文房具屋の袋よ、あの色」

「文房具屋に何しに行くんだ、日曜に」

「知らないわよ」

「デートで文房具は買わん」

「じゃあ何よ」

「指輪だ」

 ベランダの下を、二人は通り過ぎた。芦田が、女の紙袋を見て、少しだけ笑ったように、正夫には見えた。

「笑ったぞ」

「笑ってないわよ」

「笑った」

「あの人が笑うもんですか」

「笑ったんだ、いま」

五

 五月の総会は、連休が明けた最初の日曜、集会室で、二時からだった。

 正夫は腰を痛めて出なかった。掃除当番の翌日に痛めたのが、連休のあいだにぶり返した。律子に言わせれば、箒を持って首だけ回していたからである。律子が出た。受付で名前を書くとき、律子は出席簿を上から下まで見た。三〇一の欄は空いていた。四〇二には、委任状の印がついていた。律子は、それも怪しいと思った。二人一緒に出れば目立つ。議題は駐輪場の増設と、エレベーターの保守契約の更新で、律子はどちらにも興味がなかったが、三〇二の女が出席していることには興味があった。

 女は、駐輪場の議題で一度だけ手を挙げ、増設には賛成だが、置き方の順番を先に決めておいたほうがいい、と言った。低い、落ち着いた声だった。律子は膝の上で手を握った。あの声だ。何度も聞いたのだから間違えるはずがなかったし、正夫が三〇二だと言った時点で、もう間違えようがなかった。

 議題が終わって、その他、のところで、律子は手を挙げた。

「三階に、変な電話がかかってきてるんです。女の人の声で、駅に来いって。うちと、三〇一さんと」

 集会室が静かになった。

 理事長が、はあ、と言った。理事長は五〇一の人で、去年からやっていて、来年はやらないと言っている。

「それは、警察のほうに」

「警察は、何て言うのよ」

「いや、私に言われても」

 誰かが笑った。笑ったのが誰かは、この話には要らない。それから、傘の話も出たんですけど、と律子が言いかけたところで、理事長が、では駐輪場の件に戻ります、と言った。戻る話ではなかったが、戻った。律子は座って、隣の列を見た。女は議案書を見ていた。

 総会が終わって、集会室の出口で、律子は女の隣に並んだ。並んで、言った。

「さっき言った、電話の話ね。傘を持って来いって言うのよ。あの日、晴れてたのに」

 女は議案書を鞄に入れていた。

「そうですか」

「そうですかって、あなた」

 女は会釈をして、階段のほうへ歩いていった。エレベーターを使わなかった。

 律子は三〇三に帰って、正夫に言った。

「認めたわよ」

「何を」

「そうですか、って言ったの。知らないなら、知りませんって言うでしょ」

「そうですかとしか言えんだろう」

「言えるわよ。なんのことですかって。訊かないってことは、知ってるってことよ」

「訊かんやつは、知らんやつだ」

「じゃあなんで訊かないのよ」

「知らんからだ」

「あんたは訊かないでしょ、何でも。知ってるから訊かないんでしょ」

「知らんから訊かんのだ」

 正夫は腰にカイロを貼ったまま、ソファに横になっていた。横になっている男に、立っている女が勝てないはずはないのだが、この家では二十年、そうなっていない。律子はその足元に立って、言った。

「あんたが行けばよかったのよ」

「どこに」

「北口よ。傘持って。そしたら、はっきりしたのに」

「行ったじゃないか」

「傘持って、って言ってるの。傘持って行って、堂々と前に立ってたら、向こうだって何か言ったでしょ」

「言うか。ガム買いに行った男に」

「ガム買ってないでしょ」

「売り切れだったんだ」

「駅前のコンビニでガムが売り切れるわけ――」

「そもそもだ」と正夫は言って、腰を起こそうとして、やめた。「そもそも傘は、おまえが押入れに上げたんだ。俺が持って行けるわけがない。椅子がないと届かないんだ、あそこは」

「椅子を持ってくればよかったでしょ。だいたいあんたは、去年の法事のときだって――」

了