一
回覧板は、月に一度か二度、回ってくる。
中西沙耶が夫と二人で越してきたのは三月の終わりで、最初の回覧板は四月の二日に来た。玄関のドアの横の外壁に、板を吊るす金具が最初からついていて、前の住人がつけたものだと不動産屋は言った。板は緑色のプラスチックで、角が白く擦れている。板の表面に、順番表が貼ってある。
大河内 → 前田 → 中西 → 佐藤 → 石橋 → 小野 → 田村 → 久保 → 大河内
中西のところだけ、上から貼った紙で、前の住人の名前を消してある。紙の端が少し浮いている。
中は、市の広報と、清掃の日程。読んで判子を押し、次の家に持っていく。確認欄は板に直接貼ってある一枚の表で、左に月日、右に八軒の名前が並び、回ってくるたびに一行ずつ埋まっていく。中の書類は回ごとに入れ替わるが、この表だけは板に残って、下へ下へと伸びていく。それだけのことだった。沙耶が回覧板を手に持つのは二十年ぶりで、実家では母がやっていた。
次は佐藤さんで、隣だった。
二
順番表の最後に、久保という家がある。
沙耶がそれを気にしたのは五月の半ばで、理由は簡単だった。この班は八軒で、路地の片側に四軒、向かいに三軒、いちばん奥の突き当たりに久保の家が一軒。自分の家を除くと七軒あって、六軒までは、越してきた挨拶で顔を見た。久保だけ、見ていない。
久保の家は平屋で、道に面した窓に雨戸が閉まっている。表札は「久保」の二文字だけ。郵便受けは門柱に埋め込みの古い型で、蓋に錆が出ている。挨拶に行った日はチャイムを二度押して、出なかった。南口の商店街で買った菓子折りは、持ち帰った。
「久保さんは、朝が早いから」
班長の大河内さんはそう言った。七十過ぎで、路地の入口の家に一人で住んでいる。班長は一年で交代する決まりだが、大河内さんがもう何年もやっている。回覧板のことで訊きに行くと、玄関先で、こちらが言い終わる前に答える人だった。
「朝が早いと、どうなんですか」
「だから、いないのよ、昼は」
夜はいるのか、と沙耶は訊かなかった。訊いても、だから、と言われる気がした。
田村さんにも訊いた。田村さんは久保のひとつ前で、回覧板を久保の家に持っていく役だった。六十くらいの、犬を飼っている男の人で、いつも犬の話をする。
「置いてくるだけですよ。玄関の脇に。次の日には、大河内さんのとこに行ってる」
「久保さんが、持っていくんですか」
「そりゃそうでしょう」
そう言って犬の話に戻った。
三
沙耶は家で仕事をしている。在宅で、通販の商品説明を書く仕事で、二階の道に面した部屋に机がある。窓から、路地が突き当たりまで見える。久保の家の玄関も、雨戸も。
六月の回覧板が小野さんの家から田村さんの家に渡るのを、沙耶は窓から見た。明日か、明後日だ。それから沙耶は、机を離れなかった。
翌日の夕方の四時過ぎに、田村さんが犬を連れて路地を歩いていき、久保の玄関の脇の、雨樋の根元に、板を立てかけた。犬が雨戸のほうを見て、少し吠えた。田村さんが引いて、戻ってきた。
板は、そこにあった。
沙耶は五時まで見て、六時まで見て、暗くなって見えなくなるまで見た。夫の拓海が帰ってきて、なにしてるの、と言った。
「回覧板」
「回覧板が、なに」
「久保さんが取りに出てくるのを見てる」
拓海は笑って、風呂に入った。
沙耶は寝るまでに三度、窓を見た。板は雨樋の根元にあった。路地に外灯が一本あって、久保の家までは届かない。それでも、板の緑だけが、少し、光っていた。
朝、六時半に起きて窓を見ると、なかった。
それから沙耶は、路地の入口の大河内さんの家まで歩いていった。門の郵便受けに、緑の板の角が見えていた。
四
七月の第一日曜は、班の一斉清掃だった。朝の七時に、各自が自分の家の前を掃く。それだけの行事で、回覧板に日程が載っていた。
沙耶は箒を持って出た。路地の両側で、みんなが自分の家の前を掃いていた。石橋さんの奥さんが、おはようございます、と言った。小野さんの小学生が、水を撒いていた。
突き当たりの久保の家の前は、田村さんが掃いていた。犬は門に繋いであった。田村さんは自分の家の前を先に済ませて、それから久保の家の前に移って、雨樋の根元の落ち葉を集め、門柱の錆びた郵便受けの上を、手で払った。
沙耶は自分の家の前を掃き終えてから、路地を歩いていって、田村さんの隣に立った。
「久保さんの分も、田村さんが」
「順番だから」
「順番」
「久保さんは、朝が早いから」
田村さんは集めた落ち葉を袋に入れて、口を縛った。袋は路地の入口に出す決まりで、そこには大河内さんが立っていて、袋の数を数えていた。八つ、と大河内さんは言った。沙耶は自分の袋を置きながら、久保の家の袋を、田村さんが置くのを見た。
その日の午後、沙耶は拓海に、久保さんの家、行ってみない、と言った。拓海は行った。チャイムを押して、戻ってきて、留守だった、と言った。それだけだった。
五
「久保さんって、亡くなったんじゃなかったっけ」
前田さんが言ったのは、七月の、小学校の資源回収の朝だった。前田さんは沙耶のひとつ前で、小学生が二人いて、いつも急いでいる。
「うちが越してきたときには、もう、いなかったと思う。六年前」
「じゃあ、誰が」
「知らない。回ってるから、いるんでしょ」
前田さんは新聞の束を当番の軽トラに積んで、行ってしまった。
沙耶は大河内さんの家に行った。
「久保さん、亡くなってるって聞いたんですけど」
「亡くなってないわよ」
「どなたか、会ったことが」
「回ってるじゃないの」
大河内さんは、そう言って、玄関の内側から、緑の板を持ってきて見せた。この前の回の分だった。確認欄のいちばん下の行に、判子が八つ並んでいる。大河内、前田、中西、佐藤、石橋、小野、田村、久保。久保の判子は朱色が濃くて、少しにじんでいて、いちばん新しく押したように見えた。
「ほら」
沙耶はそれを見た。自分の判子の五つ右に、久保の判子があった。
「会費も、ちゃんといただいてるし」
「久保さんから」
「玄関に、封筒で置いてあるのよ。四月に。毎年」
大河内さんは板を持って、家の中に戻った。
六
拓海には、言わなかった。
八月の回覧板が来た。沙耶は確認欄に判子を押して、いちばん最後の紙の裏に、鉛筆で小さく書いた。
久保様。中西です。三月に越してきました。ご在宅のときに、一度ご挨拶をさせてください。
書いてから、消そうと思って、消さなかった。板を佐藤さんの家に持っていった。
次の回覧板が来たのは二週間後で、沙耶はまず最後の紙の裏を見た。何も書いていなかった。消しゴムの跡もなかった。広報は、新しい広報だった。前の号が、どこへ行くのかは、知らなかった。
確認欄の前の行には、久保の判子が押してあった。朱色が濃くて、にじんでいた。指で触ると、少し、指についた。
八月の終わりに、ごみの集積所で前田さんと一緒になった。前田さんのほうから言った。
「久保さんのこと、うちの人に訊いたのよ。越してきた年に一度、朝早く、雨戸が開いてるのを見たって」
「六年前に」
「見たって言ってるんだから、いいじゃない」
前田さんは袋を置いて、子どもの名前を呼びながら帰っていった。
七
九月の終わりに、沙耶は久保の家の前に立った。
夕方で、田村さんが板を置いていったあとだった。田村さんの犬は、久保の家の手前で足を止めて、そこから先へ行かなかった。歳かな、と田村さんは言って、板だけ持って奥まで行き、戻ってきた。沙耶とすれ違うとき、こんばんは、と言った。沙耶も、こんばんは、と言った。
板は雨樋の根元にあった。沙耶はそれを見て、それから玄関を見た。引き戸で、曇りガラスの向こうは暗い。チャイムを押した。中で鳴る音が、外まで聞こえた。誰も来なかった。
郵便受けの蓋を、指で押し上げた。中は空だった。チラシの一枚も入っていない。
雨戸の隙間に目を当てた。何も見えなかった。暗いからではなく、雨戸の内側にカーテンがあって、それが閉まっていた。カーテンの柄は、見えた。細かい花の柄で、日に焼けて、上のほうだけ白い。
沙耶は板を手に取った。
確認欄を見た。いちばん下の行、田村さんまで七つ押してあって、久保のところは空いている。
持って帰ろう、と思った。誰にも渡さない。久保のところが空いたまま、この板は止まる。それで、久保はいないことになる。いないことにならなければ、どうなるのか。
板を胸に抱えて路地を戻り、家に入って、二階の机の上に置いた。拓海には、忘れ物、と言った。
夜中に一度、目が覚めた。二階に上がって、机を見た。板はあった。久保のところは空いていた。窓を見た。久保の家は暗くて、雨樋の根元には何もなかった。
路地の奥で、箒の音がした。
沙耶は窓を開けなかった。音は、しばらくして、やんだ。
朝、六時に起きて、二階に上がった。机の上に、板はなかった。
一階に下りて、玄関を開けた。金具に、板が吊るしてあった。
確認欄を見た。いちばん下の行に、判子が八つ並んでいた。久保の判子は、まだ乾いていなかった。
沙耶は板を金具から外して、路地の入口の大河内さんの家まで歩いていった。門の郵便受けに入れた。角が見えるように。それから家に帰って、机に向かって、商品説明を三つ書いた。
何日かして、大河内さんの家の前を通った。何か言われるかもしれないと思った。大河内さんは玄関先で植木に水をやっていて、こんにちは、と言った。沙耶も、こんにちは、と言った。
次の回覧板が来た日、路地で田村さんと犬に会った。田村さんは犬の話をして、それから、思い出したように言った。
「板はね、雨樋の根元に置いてあれば、それでいいですからね」
沙耶は、はい、と言った。
八
十一月に、石橋さんが引っ越していった。転勤だと聞いた。空いた家には、年が明けてから若い夫婦が入った。
挨拶に来た夫のほうが、紙袋を提げたまま、玄関先で、金具に吊るしてあった板の順番表を見ながら言った。
「久保さんって、どんな方ですか。うかがったんですけど、お留守で」
沙耶は答えた。
「玄関の脇の、雨樋の根元に置いておけば大丈夫です」
男は、はい、と言って、手帳のようなものに書いた。
「ありがとうございます。助かります」