AI文庫 / 第九作

九時四十分

壁の向こうで、毎晩九時に、バッハのインヴェンションが始まる。隣の人は十五小節目で必ず止まる。音大を三年で辞めた男は、二十三日目の夜、言いに行ってしまう。言ったせいで、ピアノは鳴らなくなる。

恋愛 / 短編 4,059字(四百字詰 10.1枚) 2026.09.17
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一

 九時になると、壁の向こうで、ドが鳴る。

 最初の一音だけ、いつも少し長い。鍵盤に指を置いて、置いたまま、まだ弾いていない、というくらいの長さで、それから右手が走り出す。バッハのインヴェンションの一番。ハ長調。俺が十一のときに弾いた曲で、隣の部屋の人は、たぶん大人になってから始めた人で、四月の頭から毎晩、同じ曲を、同じ時間に弾いている。

 九時から九時四十分まで。四十分きっかりで、切れる。蓋を閉める音がして、そのあとは何も聞こえない。

 俺はそのあいだ、布団の上に座っている。仕事は南口の学習塾の事務で、事務は昼の番だから、授業が始まる頃に帰って、商店街で飯を買って食うと九時になる。テレビはつけない。つけると聞こえないからで、聞こえないと困るのかと言われれば、困らない。それでも、つけない。

 下の部屋は春から空いている。反対隣は、いつもテレビの音が大きい。

 問題は十五小節目だ。

 主題がもう一度左手に入り直すところで、隣の人は必ず止まる。必ず、だ。四月の頭から数えて、一度も通っていない。止まって、四小節ほど戻って、もう一度やって、同じところで止まる。それを三度か四度繰り返して、あきらめて先へ行く。先はわりあい弾ける。最後まで行って、また頭から。九時四十分。切れる。

 なぜ止まるのかは、聞いていれば分かる。右手が主題を手放していない。左手が主題を取りに来ているのに、右手がまだ歌っていて、両手が同じものを弾こうとして、ぶつかる。そこで右手が一拍、下がればいい。音は出したまま、黙る。それだけだ。それだけのことを、隣の人は、四月の頭から知らないままでいる。

 俺は壁に向かって、口の中で言う。右手。右手を下げる。聞こえるわけがない。

二

 二十三日目の夜、俺は立ち上がった。

 九時二十分。ちょうど三度目に止まったところで、俺はサンダルを履いて、外廊下に出た。隣のドアの前に立った。表札はない。郵便受けに「三上」とだけ書いてある。チャイムを押した。中でピアノが止まった。しばらくして、ドアが十センチ開いた。

 女の人だった。俺と同じくらいか、少し下。眼鏡。髪を後ろで縛っている。部屋着で、ドアの隙間から、電子ピアノの譜面台に立てた楽譜の端が見えた。

「夜分にすみません。隣の、森下です」

「……はい。うるさかったですか」

「いえ。あの、十五小節目です」

 女の人は何も言わなかった。

「右手が、主題を手放してないんです。左手が取りに来てるのに、右手がまだ歌ってて。そこで右手を一拍、下げるんです。音は出したまま、黙るっていうか。伴奏に下がるんです。そうすると通ります」

 言い終わってから、自分が何を言ったのか分かった。夜の九時二十分に、隣の男が、部屋着の女の部屋のチャイムを鳴らして、楽譜の小節番号を言っている。

「……はい」と女の人は言った。

「すみません。それだけです」

 ドアが閉まった。俺は部屋に戻って、布団の上に座った。

 ピアノは鳴らなかった。九時四十分になっても、鳴らなかった。

三

 鳴らない夜が、九日続いた。

 九日目に、俺はごみ置き場で三上さんに会った。朝の七時で、三上さんは可燃ごみの袋を提げていて、俺も提げていた。三上さんは俺を見た。袋を置いて、行こうとした。

「弾かなくなりましたよね」

 言った。言うつもりはなかった。口が先に動いた。

「ヘッドホンにしました」

「あ」

「うるさかったですよね。すみませんでした」

「うるさくないです」

 三上さんは、袋の口を直すふりをした。

「うるさくないです。俺、毎晩聞いてました。九時から九時四十分まで。四月の頭から。二十三日」

 三上さんの手が止まった。

「数えてたんですか」

「数えてました」

 言ってから、また分かった。数えていた、と言われた側が、どういう顔をするか。三上さんはその顔をした。眼鏡の奥で、目が少し引いた。

 三上さんは袋の口から手を離した。

「あの、それで、十五小節目、通りました」

「え」

「右手を下げたら。次の日に、通りました。ヘッドホンで」

「そうですか」

「だから、その、ありがとうございました」

 三上さんはそう言って、階段を上がっていった。俺は可燃ごみを置いて、しばらくごみ置き場に立っていた。カラスが一羽、ネットの上に降りて、俺を見た。

 俺の言ったとおりに右手を下げて、通った。それを俺は聞いていない。

四

 それからひと月、壁からは指の音しか来なかった。

 俺は九時になると布団の上に座って、九時四十分に立った。テレビはつけなかった。壁に耳を寄せると、指が鍵盤の底を叩く音だけが、雨みたいに聞こえた。音の高さはなかった。通ったかどうかは、分からなかった。ヘッドホンの向こうで、十五小節目が通って、十六小節目に進んで、たぶんもう最後まで行って、二番に入っているかもしれない。二番はハ短調で、一番より難しい。三上さんが二番のどこで止まるのか、俺は知らない。知らないのが、腹の底に溜まった。

 五月の終わりの木曜に、九時に、ドが鳴った。

 最初の一音が長い。それから右手が走る。一番。ハ長調。スピーカーだ。ヘッドホンではない。

 俺は布団の上で、膝を抱えた。

 十五小節目。右手が下がった。左手が主題を取った。通った。壁の向こうで、通った。三上さんは止まらずに十六小節目に入って、そのまま最後まで行って、いちばん最後の和音を、少し長く押さえてから、離した。

 それから、頭に戻らなかった。蓋を閉める音がした。九時四分。

 九時四分から、壁は静かだった。俺はそれを、朝まで聞いた。

五

 翌朝、階段で三上さんに会った。三上さんは仕事に行くところで、俺も行くところで、階段は一つしかない。

「昨日、聞こえました」

 三上さんは足を止めた。俺は続けた。

「通ってました。十五小節目。すごかったです」

「……はい」

「ありがとうございます」

「なにが」

「スピーカーで弾いてくれて」

 三上さんは、階段の途中で、俺を見上げた。

「あれは、森下さんのためじゃなくて」

「あ」

「ヘッドホンだと、自分の音が分からなくなるから。一回、部屋で鳴らしてみたかっただけで」

「分かってます」

「分かってないと思います」

 俺は分かっていなかった。分かっていなかったなら、ここで黙ればよかった。黙ればよかったのに、口が動いた。

「俺、音大にいたんです。ピアノ科で。三年で辞めました。辞めてから八年、鍵盤に触ってなくて、でも聞いてると指が動くんです。だから十五小節目で止まるたびに、こっちの右手が、布団の上で下がるんです。それで、言いに行きました。すみません。言わなきゃよかったと思ってます。でも言わなかったら三上さんはまだ通ってないから、言ってよかったとも思ってて」

 三上さんは、しばらく何も言わなかった。階段の下で、誰かが自転車のスタンドを蹴る音がした。

「森下さん」

「はい」

「私、六月いっぱいで引っ越します」

「え」

「四月に決まってました。転勤で。向こうは寮なので、ピアノは置けないんです。それまでに一番だけ通そうと思って、毎晩やってました」

「……四月に」

「はい」

「じゃあ、俺が言わなくても」

「たぶん、通ってません」

 三上さんは、自転車の鍵を出した。

「でも、あの夜のことは、嫌でした」

 三上さんは階段を下りていった。自転車の鍵を外す音がして、それきりだった。俺は階段の途中に立っていた。塾は十時からで、遅れなかった。遅れなかったことだけが、その日のよかったことだった。

六

 六月に入っても、壁からは指の音しか来なかった。

 九時になると俺は布団の上に座った。座って、四十分、雨みたいな音を聞いた。二十日、そうした。

 六月の二十一日の夜、九時に、ドが鳴った。

 最初の一音が長い。いつもより長い。

 それから右手が走った。十五小節目で右手が下がり、通り、最後まで行って、最後の和音を長く押さえて、離した。それから、頭に戻った。

 二度目。通った。三度目。通った。四度目の途中で、俺は立ち上がった。サンダルを履いて、外廊下に出た。隣のドアの前に立った。中でピアノが鳴っている。十五小節目が近い。俺はチャイムを押さなかった。押さないで、ドアに向かって、言った。

「通ってます」

 ピアノが止まった。十五小節目の手前で。

 ドアが十センチ開いた。三上さんは、部屋着で、眼鏡で、俺を見た。

「止まりましたよ、いま」

「すみません」

「四月から、そこの手前で止まったのは、初めてです」

「すみません」

 外廊下の蛍光灯が、一度、瞬いた。三上さんは眼鏡を上げた。

「森下さん」

「はい」

「弾いてみますか」

「え」

「八年、触ってないんでしょう。引っ越しの前に、一回、誰かに弾いてもらおうと思ってたんです。電子だけど」

 ドアが、十センチから、四十センチになった。三上さんはドアを閉めなかった。部屋は俺の部屋と同じ形で、俺の部屋にないものが一つだけあった。部屋の音が、俺の部屋と違った。物の減った部屋の、硬い音だった。俺はサンダルを脱いで、椅子に座った。鍵盤に手を置いた。ドに指を置いて、置いたまま、まだ弾かなかった。

 弾いた。八年ぶりの右手は、走らなかった。転んだ。三小節目で転んだ。俺は止まって、言った。

「ここ、昔は転ばなかったんですけど」

「弾いてください」

「四小節目からやります。四小節目は、左手が」

「喋らないで弾いてください」

 俺は弾いた。十五小節目が来た。右手が主題を手放さなかった。左手が取りに来て、ぶつかった。止まった。

「あ」

 三上さんが、俺の後ろで、笑った。声を出して笑った。

「右手を下げるんですよね」

「そうです。右手を下げるんです。分かってるんです。分かってるのに、下げないんです、手が。八年前もそうでした。分かってることと下げることが、別で、その別なのが、俺は」

「森下さん」

「はい」

「弾いてください」

「はい」

 俺は十五小節目に戻った。右手を下げた。左手が主題を取った。通った。通ったので、俺は言った。

「通りました」

「聞こえてます」

「聞こえてますよね。すみません。黙ります。黙って弾きます。十六小節目からは」

「弾いてください」

 九時四十分。俺は最後まで行っていない。ドアは開いたままだ。三上さんが後ろで、まだ笑っている。

了