一
きみは四月に来た。
けやき苑の一階の食堂は、十一時半に配膳が始まって、十二時には四十人が座っている。四十人のうち二十人は自分で食べる。手伝いが要るのが二十人で、そのうち五人は全部手伝う。全部手伝うというのは、匙に載せて、口の前に持っていって、口が開くのを待って、入れて、閉じるのを待って、喉が動くのを見て、それからもう一度匙に載せることで、一人に三十分かかる。きみは四月から、その五人のうちの二人の担当だった。河村さんと、井上さん。河村さんは口が開くまでが長く、井上さんは閉じてから喉が動くまでが長い。どちらの長さも、きみは六月には体で覚えていた。
六月に、三人目が回ってきた。志村さんだった。
志村さんは自分で食べられる。車椅子だが、手は動く。食べられるのに、このごろは、食べる前に必ず言うことがあって、それを言い終わるまで箸を持たないので、手伝う人に回された。
「梅、採った」
きみは最初、何のことか分からなかった。
「梅ですか」
「採った」
「採ってないです」
「採りなさい」
志村さんはそう言って、箸を持った。それだけだった。隣の花岡さんが、志村さんは毎日それよ、と言った。花岡さんは九十一で、人の皿に手を出す。志村さんの反対隣の榊さんは、元中学の先生で、味噌汁を見ていた。
主任の堀さんが通りかかって、きみの肩を叩いた。
「志村さんの家に梅の木があるの。娘さんが月に一回、風を通しに行ってる。それで、梅が気になるのよ」
「採ってあげないんですか」
「誰が」
堀さんは行ってしまった。食堂の奥で、誰かが何かを落とした。堀さんはそっちへ行った。きみは志村さんの箸が動くのを見ていた。志村さんは補聴器をつけていない。つけろと言うと、うるさい、と言う。
二
志村さんの家がどこにあるか、きみは志村さんに訊いた。
訊いたのは六月の九日の昼で、三度訊いて、三度目に耳のそばで言うと、志村さんは、駅の南、と言った。それから町の名前を言って、梅がある家、と言った。きみは梅がある家をどうやって見つけるのかと思ったが、翌日は休みで、朝の七時に電車に乗って、二駅先で降りて、線路の南側に出て、町の名前の看板を探して、三十分歩いたら、梅がある家は一軒しかなかった。
平屋で、雨戸が閉まっていた。玄関までの草に、一筋だけ、踏まれた跡があった。月に一度の跡だった。きみは跡を見てから、塀に沿って家の裏に回った。木があった。
塀は低かった。きみは塀の外から木を見た。実がついていた。青いのと、少し黄色くなりかけたのがあって、地面に二つ落ちていた。落ちたのは茶色くなっていた。
きみは塀に手をかけた。
かけてから、道の向こうを見た。誰もいなかった。朝の八時で、雨戸の閉まった家の裏の、塀の外に、二十三の男が立っている。きみは自分がそういう格好で立っていることを知っていて、それでも塀を越えた。
裏も草が伸びていた。木は思ったより高くて、下のほうの枝だけ手が届いた。きみはコンビニの袋を出して、届く実を全部もいだ。十四個。上のほうにはまだたくさんあって、届かなかった。梅は硬くて、もぐと、枝が少し鳴った。手が青くさくなった。
塀を越えて道に戻ったとき、隣の家の門から、男の人が出てきた。六十くらいの男で、ごみの袋を提げていた。男の人はきみを見て、きみの袋を見た。
「志村さんとこの」
きみは言った。
「孫です」
言ってから、袋を持ち直した。男の人は、ああ、と言って、そう、大変ね、と言って、道の先へ歩いていった。それだけだった。きみは駅まで歩いて、電車に乗って、袋を膝に置いた。袋から梅の匂いがして、電車の中でそれを嗅いでいるのはきみだけだった。
三
昼、きみは袋を持って食堂に入った。休みの日で、制服を着ていなかった。
志村さんは窓際の席にいた。花岡さんと榊さんも、いつもの席にいた。配膳はまだで、テレビがついていて、堀さんが配膳車を押していた。堀さんは、きみが食堂に入ったときから、こちらを見ていた。栄養士の浅野さんが献立の紙を貼っていた。
きみは志村さんの前に袋を置いた。
「志村さん。梅、採りました」
志村さんは袋を見た。それから袋に手を入れて、一つ出して、握った。握ったまま、しばらく動かなかった。
「青い」
「はい。まだ青いのが多かったです」
「遅い」
「すみません」
「塩」
「え」
「塩、持ってきなさい」
塩は厨房にある。志村さんは厨房に入れない。きみは立たなかった。
花岡さんが、あら梅、と言った。私にも一つちょうだいよ、と言った。榊さんが、こちらを見た。榊さんがこちらを見るのは、四月から初めてだった。浅野さんが献立の紙を貼る手を止めて、袋を見て、それから、きみを見た。
「茂木さん、それ、どこの」
「志村さんの家のです」
きみは言った。言うつもりだった。志村さんに採ったと言い、隣の家の人に孫だと言った。そのあと嘘は一つも言いたくなかった。
「志村さんの家に、行ったの」
堀さんだった。配膳車を置いて、来ていた。
「行きました。今朝」
「誰の許可で」
「志村さんが、採りなさいって」
「志村さんは、入居者でしょう」
配膳が始まっていた。河村さんと井上さんの前に皿が置かれて、二人とも、皿を見たまま動かなかった。河村さんの口は、開いていなかった。誰かが入らなければ、二人は三十分後もそのままだ。堀さんは、きみを見たまま、後ろに向かって、牧田さん、河村さんお願い、と言った。牧田さんが来て、河村さんの隣に座って、匙を持った。井上さんには、誰も来なかった。
花岡さんが、いいじゃないの、梅くらい、と言っていた。志村さんは梅を握ったまま、塩、ともう一度言った。浅野さんが、志村さん、それ生で食べないでくださいね、青い梅は駄目なんです、と大きな声で言った。志村さんは、うるさい、と言った。
堀さんが袋を取った。志村さんの手の中の一つは、取らなかった。取ろうとして、志村さんが手を引いたので、やめた。
「茂木さん、あとで事務所」
堀さんは袋を持って行った。きみは井上さんの隣に座って、匙を持った。制服を着ていない職員が全介助をしているのを、誰も止めなかった。井上さんは閉じてから喉が動くまでが長い。きみはそれを待った。志村さんは梅を左手に握ったまま、右手で箸を持って、食べていた。
四
事務所には施設長の佐伯さんと堀さんがいて、梅の袋は机の上にあった。
佐伯さんは、きみに座れと言って、きみが座ってから、言った。
「入居者のご自宅に、職員が無断で入った。これは、私からご家族に説明しないといけない」
「はい」
「もう電話は来ている。隣の方が娘さんに電話をして、娘さんからうちに電話が来たのが、十時だ。食堂に来る前だ」
「はい」
「警察に、と言われたら、そうなる」
「はい」
「それから、隣の家の人に、孫だと言ったそうだね」
きみは、はい、と言った。
「これは、嘘だ」
「はい」
「茂木さんが嘘をつく人だとは思わなかった。四月から見ていて」
きみは何も言わなかった。言うことがあったが、言わなかった。梅は塀の外から見えて、落ちていて、志村さんは毎日採ったと言い、誰が、と堀さんが言い、それできみは採った。
「今月いっぱいで、ということに」
佐伯さんはそう言った。堀さんは何も言わなかった。きみは、はい、と言った。
机の上の袋の口が開いていて、青い匂いがしていた。十三個。一つは志村さんの手の中にある。
きみは帰らなかった。夕食の配膳に、制服を着て入った。堀さんは、きみを見ただけだった。志村さんは梅を握っていなかった。堀さんが志村さんに、お部屋の窓のところに置いてあります、と言った。志村さんは箸を持つ前に、誰にともなく、言った。
「梅、採った」
「採りました」
志村さんは、こちらを見なかった。
「遅い」
志村さんは箸を持った。花岡さんが、この人ね、今日は朝から梅の話ばっかりよ、と言った。榊さんは味噌汁を見ていた。食堂の奥で、誰かが何かを落とした。堀さんがそっちへ行った。きみは井上さんの隣に座って、匙を持った。
六月の三十日にきみは辞めた。梅の袋は事務所の流しの下に置かれたまま黄色くなり、茶色くなって、塩は誰も買わず、七月の三日に捨てられた。志村さんの部屋の、窓のところに置かれた一つは、もう少し長くそこにあった。
きみはその日、隣の市の別の施設で、夜勤に入っていた。夜の九時に、四階の女の人が、きみの袖を引いて、廊下の突き当たりの窓を指して、開けて、と言った。窓は開かないようになっている。きみは、訊いてきます、と言った。訊きに行かなかった。