AI文庫 / 第十四作

一時停止

日曜の午後、父は補助輪を外してテレビに戻った。十七歳の陸は、六歳の妹の自転車の荷台を持って、家の前の道を往復する。道の先には、去年の十月から行っていない、一時停止の十字路がある。「示談」の高校生の側から。

現代ドラマ / 掌編 2,148字(四百字詰 5.4枚) 2026.09.24
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 補助輪を外したのは父で、外したあとのことは陸に回ってきた。

 日曜の午後で、父は工具箱を玄関に出したまま居間に戻って、テレビをつけた。妹の自転車は門の内側に立てかけてある。後輪の軸に、補助輪の金具の跡が、左右に残っている。妹はその横にしゃがんで、跡を見ていた。六つになったばかりで、自転車は去年の誕生日の、黄色いのだ。

「乗れるようになるって、お父さんが」

「言ったのはお父さんだろ」

「お兄ちゃんが教えるって、お父さんが」

 陸は居間を見た。父はテレビを見ていた。日曜の午後にやっている、旅の番組だった。母はパートで、六時まで帰らない。

 サンダルのまま、外に出た。

 家の前の道は、車が一台通れる幅で、両側に家が並んでいて、真っ直ぐに二百メートル行くと、一時停止の標識のある十字路に出る。陸はその十字路に、去年の十月から、行っていない。行かないと決めたのではなく、行く用事がなかった。学校も駅も反対側で、十字路の先には、コインパーキングと住宅があるだけだった。去年の十月まで、陸は自転車で学校に行っていた。

 妹は自転車を押して、門から出てきた。押すのは上手だった。

「ここでやる」

「ここ、狭い」

「狭くていい」

 陸は自転車の後ろに回って、荷台を持った。荷台は小さくて、手のひらで掴むと、指が余った。右手で掴んだ。掴んでから、左手に持ち替えた。右の手首は、去年の十月に骨にひびが入って、三週間で治ったと医者は言った。治ったが、力を入れると、少しずれた場所が、鳴る。音はしない。

「行くよ」

 妹はサドルにまたがって、両足を地面につけた。つくのだから、まだ体に合った自転車だ。ペダルに足を乗せる。乗せたほうの足に体重がかかって、自転車が傾く。陸が荷台を引く。戻る。

「漕いで」

 漕いだ。前輪が左に曲がった。曲がった方向に体が倒れて、陸が引いた。戻った。また漕いだ。今度は右に曲がった。引いた。

 行く先は、隣の家の門の前までで、十メートルもない。そこまで行って、押して戻って、また行く。それを三度やった。三度とも、陸は荷台から手を離さなかった。妹は三度とも、漕いだ。

 次に行ったとき、隣の家の人が出てきた。犬を連れていた。犬は自転車を見て、妹を見て、陸を見て、それから何も見なかった。隣の人は、頑張ってね、と言って、こちらとは反対のほうへ歩いていった。

 その次に、妹が、離して、と言った。

「まだ」

「離して」

「曲がる」

「曲がらない」

 陸は離さなかった。離さないまま、荷台を持つ手の力を、少し抜いた。抜いた分だけ、自転車が妹のものになった。妹は気づかなかった。気づかないまま、道の端まで行った。

 そこで一度、休んだ。妹は自転車にまたがったまま、家のほうを見た。居間の窓は開いていて、テレビの音が外まで来ていた。旅の番組は終わって、次の番組になっていた。父の姿は、窓からは見えなかった。

「お父さん、見てない」

「見てない」

「見てって言ってきて」

「自分で言え」

 妹は言いに行かなかった。自転車を押して、家の前まで戻って、ペダルに足を乗せた。

 それから陸は、最初から、力を抜いた。荷台に手は置いた。置いただけだった。妹は漕いだ。曲がらなかった。道の真ん中を、真っ直ぐ、隣の門の前まで行った。行って、足をついた。

「いま、持ってた」

「持ってた」

 嘘だった。置いていただけだった。妹は振り返って、陸の手を見た。手は荷台にあった。妹は前を向いた。

 そのあと、陸は手を離した。

 離したのは、道の真ん中で、妹が漕ぎ出して三漕ぎ目だった。離して、陸は立ち止まった。自転車は行った。真っ直ぐ行った。隣の門の前を過ぎた。過ぎて、その次の家の前も過ぎた。

 止まらなかった。

 足をつく、ということを、妹は忘れているようだった。背中が、前にだけ向いていた。自転車は、家の前の道を、真っ直ぐ、十字路のほうへ行った。道は少し下っていて、漕がなくても進む。妹は漕いでいた。

 陸は走った。

 走って、手首が鳴った。走るだけで鳴るのは初めてで、鳴ったのは右で、右は、持ち替えてから荷台に触れていなかったほうだった。妹の背中は、思ったほど近くならなかった。

 道の先に、標識が見えた。赤い逆三角で、下の柱に、ポスターの剥がし残しがある。去年もあった。標識のすぐ先で、道は十字路になる。横の道は、こちらより広い。車が通る道だ。いま通っているかどうかは、ここからは見えない。

 妹の頭は、下を向いていた。前輪を見ている向きだった。

 陸は、去年の十月、あそこの歩道の端で、一度止まって左右を見た、と警察に言った。母もそう言った。止まった気はする。見た気もする。スマホは、手に持っていた。

 妹は止まらない。

 陸は走った。手首が鳴っていた。声を出すには、息が要った。息は、走るのに使っていた。妹の背中と標識が、重なって見えた。横の道は、まだ見えなかった。

「止まれ」

 妹は止まらなかった。標識の下を過ぎて、十字路を抜けた。横の道には、何も来なかった。妹はコインパーキングの柵の手前で足をつこうとして、つけなくて、柵に寄りかかって止まった。倒れなかった。

 陸は走るのをやめた。歩いた。手首は鳴っていた。十字路を渡る前に、標識の下で止まって、左右を見た。

 妹は自転車にまたがったまま、柵に寄りかかって、こっちを向いていた。

「いま、離してた」

「持ってた」

了