AI文庫 / 第十六作

投了

四月から昼間は家にいる辻は、十月の木曜に、公民館の将棋の会へ行く。相手は木内さん。棒銀で来て、孫の話をして、負けそうになると盤を見ずに庭の缶を見る。常連は知っている。「木内さんは、負けそうになると、長い。五時まで考える」。「三〇三号室」の夫を、盤の向こうから。一人称。

現代ドラマ / 短編 3,308字(四百字詰 8.3枚) 2026.09.24
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 公民館の掲示板に、将棋の会の紙が貼ってあるのは、九月から知っていた。毎週木曜、一時から五時、和室、初心者歓迎。紙の下のほうが日に焼けて、初心者歓迎の字だけ、あとから書き足したように濃かった。

 自分は四月から、昼間、家にいる。団地から公民館までは歩いて二十五分で、バスの通る道を駅のほうへ行って、郵便局の角を曲がる。十月の三度目の木曜に、中に入った。

 その日は、朝に洗濯をして、ベランダに干して、昼を食べて、十二時半に家を出た。干したものは、帰るまでに乾く。十月はまだ、そういう日が多い。公民館の玄関で靴を脱いだ。廊下の突き当たりに掛け時計があって、一時五分前だった。

 和室は一階の奥で、十二畳に座卓が二つあって、人が四人いた。全員、自分の親より上に見えた。障子が庭に向かって半分開いていて、畳の上に、桟の影が、四角く落ちていた。入口に立っていると、帽子をかぶったままの人が顔を上げた。

「初めてかい」

「初めてです」

「木内さん、新人さんだよ」

 木内さん、と呼ばれた人は、奥の座卓で一人で盤に向かっていた。駒を並べている途中で、顔を上げて、こっちを見て、また盤を見た。

「そっち座んな。木内さんが相手してくれる」

 座布団は薄かった。座って、正座にして、すぐ、あぐらに直した。木内さんは正座だった。

「名前は」

「辻です」

「どこの」

「団地の」

「仕事は」

「いまは」

「いまは、ってのは、ないってことだな」

 駒を並べ終わって、駒箱を、こっちに押して寄こした。

「親は」

「隣の市です」

「知ってるのか。昼間、家にいるのを」

「知ってます」

「そうか」

 自分は駒を並べた。並べながら、玉と王の区別がある駒だな、と思った。木内さんの側が王で、自分の側が玉だった。

「年寄りが先手だ」

 振り駒はしなかった。木内さんは、七六歩、と声に出して指した。自分は八四歩を指した。

 木内さんは棒銀だった。銀が前に出てくるあいだ、喋った。孫が千葉にいて、二つで、まだ喋らない。娘は喋るのが早かった。腰は、正座から立つときだけ気をつけている。将棋は会社の昼休みで覚えた。昼休みは四十五分で、四十五分で終わる将棋しか、会社では指せなかった。

「ここは五時までだ」

 五時までなら、四十五分の将棋が五回できる。木内さんはそう言って、笑った。隣の座卓を見ると、帽子の人と眼鏡の人が指していて、帽子の人が、駒を持ったまま、こっちを見ていた。目が合うと、盤に戻った。

 銀がこっちの陣地に入ってきた。棒銀は受け方が決まっている。受けた。木内さんの銀は、行き場がなくなって、ただで取れた。木内さんはそのあと、少し黙った。

 自分はネットで、段を持っている。盤の上では、自分のほうが良かった。

「辻くん、強いのか」

「少し」

「少し、ってのは、強いってことだな」

 会社の昼休みには、総務に強い若いのがいて、四十五分で二回負けた日がある、と木内さんは言った。昼休みは、チャイムで終わる。チャイムのあとは盤を片付けて、午後の仕事だ。

 木内さんは、また喋り始めた。今度は、団地のことだった。あそこは階数が多いだろう、いや、そんなことはない、五階建てだ、五階でも多い、うちは五階建てのマンションで、そう言えば同じだな。同じです。同じか。何階だ。三階です。うちも三階だ。木内さんは、それが何かの手柄のように、うん、と言った。

 木内さんの飛車が、こっちの歩を取りに来た。取らせた。歩を取った飛車に、桂馬を跳ねて当てた。桂馬が跳ねたので、角の筋が通って、木内さんの金にも当たった。飛車の逃げ場は一つで、そこへ逃げれば、金にも紐がつく。木内さんはそこへ逃げた。飛車は、金の番になった。孫の話を、また始めた。

 金を一枚取って、木内さんの王を、右の隅に追い込んだ。逃げ道が二つあって、自分は、二つとも塞ぐ手を指した。木内さんが手を止めた。

 手を止めてから、木内さんは、盤を見なくなった。天井を見て、庭のほうを見た。開いた障子の向こうに、庭があって、松と、石があった。松の下に、公民館の人が置いたらしい、灰皿代わりの缶があった。木内さんは、缶を見ていた。

「木内さん、番だよ」

 帽子の人が、隣の座卓から言った。帽子の人の対局は、終わっていた。眼鏡の人が負けて、駒を崩しているところだった。

「分かってる」

 盤に目を戻した。また缶を見た。

 自分の足は、あぐらのまま、右だけ痺れていた。座布団の縁が、足首に当たっている。畳の目が、くるぶしの下に、入ってくる感じがあった。足を組み替えた。組み替えると、今度は左が下になった。障子の桟の影は、座卓の脚のところまで来ていた。

 木内さんが手を指した。受ける手ではなかった。王の反対側で、歩を一つ突いた。

 自分は、それには構わず、王を詰ませにいった。必至を掛けた。木内さんは、また止まった。

 眼鏡の人が麦茶を持ってきた。公民館の台所で作ってくるのだと言った。紙コップが四つで、木内さんの分は、盤の脇に置かれた。飲まなかった。

 帽子の人と眼鏡の人が、隣の盤を片付けて、こっちの座卓の脇に来た。もう一人、隅で寝ていた人は、寝たままだった。壁に背中をつけて、口を開けていた。廊下を、公民館の人が通る足音がして、戸の前で止まらずに、行った。二人は、盤を見なかった。盤を見ないで、木内さんの孫の話をした。二つで、まだ喋らないんだよな、うちの孫は二つで喋ってた、女の子は早いんだ、木内さんとこは男だろ、男は遅い。木内さんは、缶を見ながら、その話に、うん、と言った。

 木内さんが、立った。正座から、片手を座卓について、ゆっくり立った。腰に手を当てた。

「便所だ」

 和室を出ていった。

 自分は、盤を見ていた。木内さんの王は、隅にいて、こっちの駒が三つ、その周りにいた。次に自分が指せば、詰む。木内さんが何を指しても、詰む。そういう形だった。

「長いよ」

 帽子の人が言った。こっちの顔を見て言った。

「木内さんは、負けそうになると、長い。五時まで考える」

「毎週ですか」

「毎週。だからな、誰も当たりたがらないんだ」

「それで、自分に」

 眼鏡の人が、麦茶を飲んで、庭を見た。自分は、盤の上の三つの駒を見た。木内さんは便所で、盤の前には、自分しかいなかった。

 木内さんは、四時十分に戻ってきた。座るのにも、時間がかかった。座って、盤を見て、缶を見た。

「どこまでだったかな」

 帽子の人が、木内さんの番だよ、と言った。

「分かってる」

 自分は、待った。待つあいだ、足を伸ばした。座卓の下で、両足を前に伸ばすと、右足の甲が、向かいの木内さんの膝に当たった。自分は足を引いた。

 四時半に、木内さんが指した。王から一番遠い、盤の反対の端で、香車を一つ、上げた。

 自分は、王を詰ませた。

 金を打って、王の逃げ道は、ない。金は、取れない。自分は駒を置いて、手を膝に戻した。

 木内さんは、盤を見た。今度は、長く見た。缶は見なかった。眼鏡の人が、隣で、息を吐いた。障子の影は、壁に上がっていた。

 廊下の戸が開いて、公民館の人が顔を出した。四十くらいの女の人で、名札をつけていた。

「五時ですので、片付けをお願いします」

 帽子の人が、分かった、と言った。女の人は戸を閉めて、廊下を歩いていった。足音が遠くなって、別の部屋の戸が開く音がした。

 木内さんは、盤を見たまま、動かなかった。帽子の人が、木内さん、と呼んだ。

「分かってる」

 木内さんは、片手を座卓について、腰に手を当てて、立った。立ってから、盤の上に手を伸ばして、王を、指でつまんだ。つまんで、駒箱に入れた。それから、他の駒を、盤の上から、手のひらで、箱のほうへ、掃くように寄せた。こっちの駒と木内さんの駒が混ざって、箱に落ちていった。

「来週な」

「木内さん」

「続きは来週だ。終わっとらん」

 蓋を閉めて、箱を座卓の端に置いて、盤を立てて、壁に立てかけた。盤の裏に、公民館の備品の札が貼ってあった。

 帽子の人は、隣で、紙コップを集めていた。眼鏡の人は座布団を重ねていた。隅で寝ていた人が、起きて、時計を見た。

 自分は、立とうとした。右足に、力が入らなかった。痺れが、膝の下から、足の指まで、一度に来た。座卓に手をついた。木内さんは、もう立っていて、上着を着ていた。

「詰んでます」

了