AI文庫 / 第十七作

知らせ

市議選の告示前の週。三十年この町の南側に配達をしていた原口は、元局長の息子の選挙事務所で、挨拶回りの案内を買って出る。角の家はマンションになっていて、岸さんの表札は別の名前で、候補者は原口を「山口さん」と呼ぶ。午後、人が通る場所として選んだのは、一時停止の標識の柱だった。一人称。

現代ドラマ / 短編 3,269字(四百字詰 8.2枚) 2026.09.24
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 地図は要らない、と言ったのだが、事務局の若い女は聞かなかった。

 住宅地図のコピーに、蛍光ペンで道が引いてある。今日回る家には、丸がついている。横に、名前が書いてある。私は三十年、この町の南側に配達をしていた。名前は、書いてなくても分かる。角の筒井さん、その二軒先の岸さん、岸さんの裏が、日によって表札の向きが変わる家。どこの犬が吠えて、どこの犬が吠えないか。

 候補者は吉永といって、吉永局長の息子だ。四十五で、塾をやっていたのを畳んで、今度が初めての選挙だ。

「山口さんが案内してくれるんですね。助かります」

 事務所は南口の商店街の、前は靴屋だった店で、窓に紙を貼って中を見えなくしてある。長机と折りたたみの椅子があって、ポスターの筒と、お茶のペットボトルの箱が、壁際に積んである。若い女は、後援会の事務局の人で、タブレットを持っている。運転手と、マイクを持つ女の人は、車のほうにいて、事務所には来ない。

 歩いて出た。私が先に立った。桜は先週が盛りで、道に花びらが落ちて、側溝の蓋のところに溜まっている。

 最初の丸は、筒井さんだった。角の家で、庭に柿の木があって、柿の木の下に、いつも犬がいた。白くて、吠えない犬だった。

 柿の木は、なかった。

 家もなかった。角には、三階建ての小さいマンションが建っていて、一階に郵便受けが六つ並んでいる。名前は、どれも筒井ではなかった。

「ここ、筒井さんですよね」

 若い女がタブレットを見て言った。私も、筒井さんだ、と答えた。若い女は、タブレットの名簿と地図を見比べて、住所は合っている、と言った。

「いつ頃までいらしたんですか」

 私が退職したのは二年前で、それまで、私は筒井さんに配達をしていたはずだ。柿の木の下の犬に、いつも声をかけていた。いつまでだったか、その場では思い出せなかった。

 候補者は、マンションの郵便受けを見て、一階のチャイムを一つ押した。出てこなかった。二つ目を押した。出てきたのは、若い母親で、赤ん坊を抱いていた。候補者は、名刺を渡して、市議会に挑戦します、と言った。母親は、頑張ってください、と言って、赤ん坊の手を振らせた。私は後ろに立っていた。

 岸さんの家は、あった。

「岸さんは、引っ越されたみたいですね」

 若い女は、タブレットを見ながらそう言って、地図の丸に、ペンで斜線を引いた。私は、岸さんの奥さんの顔を思い出していた。書留のときに、印鑑を探すのに時間のかかる人だった。玄関の靴箱の上の、赤い箱に印鑑が入っていて、それを毎回、探す。私が、赤い箱です、と言うと、ああ、と言って、赤い箱を開けた。

「原口さん」

 若い女が、私の名前を正しく言った。私は返事をした。

「岸さんは、いつ頃まで」

「二年前までは、いました」

 候補者は、新しい表札の家のチャイムを押して、名刺を渡した。男は名刺を見て、事務所の場所を訊いて、候補者が答えると、ふうん、と言った。

 岸さんの裏の、表札の向きが変わる家の隣で、出てきた人は、候補者を知っていた。塾に子どもを通わせていたのだという。玄関先で、しばらく話した。候補者は、話が長かった。若い女は、私の横に立って、タブレットを見ていた。表札の向きが変わる家は、表札そのものがなくなっていて、代わりに、宅配の箱が門柱に取り付けてあった。

「原口さん、この先、まだ分かりますか」

「分かります」

 その先も、丸は続いた。知っている家では、私は先に立って、チャイムを押して、原口です、郵便局の、と言った。出てきた人は、ああ、と言った。

 膝が、痛くなってきた。配達を辞めてから、こんなに歩いたことがない。花びらで、一度、滑った。候補者が、大丈夫ですか、と言った。

 コンビニの弁当を、事務所で食べた。候補者は食べながら電話をしていた。私は食べ終わって、椅子に座っていた。

「山口さん」

 候補者が、電話を切って、私を見た。

「午後は、ちょっと、ポスターをお願いできますか。演説会の知らせなんですけど」

 若い女が、候補者を見た。候補者は、若い女を見なかった。

「原口さんは、案内を」

「いや、こっちは名簿で回れる。名簿で回れるところは、僕と君で回る。原口さんは、地元だから、貼る場所を知ってる」

「掲示板は、来週の告示からです。演説会のは、お願いしてある家の塀とか、お店とか。それ以外は、貼らないでください」

 お願いしてある家は、地図に、赤い丸で書いてあった。私は地図を折って、上着の内ポケットに入れた。ポスターは、筒から十枚出して、丸めて、輪ゴムで留めて、持った。両面テープは、若い女が、一つくれた。

 歩いて出た。

 赤い丸の家は、どれも知らなかった。塀に貼るときに、家の人が出てきて、ここに、と言って、場所を指した。私は、そこに貼った。塀には日が当たっていて、テープは、裏紙を剥がすと、指にくっついた。

 四つ、貼り終えて、ポスターは六枚残った。

 演説会は明後日だ。赤い丸の四つは、どれも、人が通らない道だった。

 私は、人が通る場所を知っている。

 南口から住宅地に入って、真っ直ぐ行くと、一時停止の標識のある十字路に出る。自転車も車も、そこで止まる。私は三十年、あの十字路を毎日、自転車で通った。標識の柱は、ちょうど、自転車に乗った人の目の高さに、何もない。

 行った。

 十字路は、覚えているとおりだった。標識は赤い逆三角で、柱の向こうにコインパーキングがある。前は、家だった。誰の家だったか、思い出そうとして、思い出せなかった。

 柱に、ポスターを当てた。目の高さで、標識の少し下。テープは、四隅に貼った。柱は丸いので、紙が浮く。手のひらで押さえた。演説会の知らせ、と大きく書いてあって、その下に候補者の名前と、公民館の和室、と書いてある。

 下がって、見た。読めた。

 残りの五枚を、どこに貼るか、柱の前で考えていたところに、自転車が来た。

 巡査だった。

 白い自転車で、こちら側の狭い道を、十字路のほうへ下ってきて、標識の手前で止まった。私を見た。柱を見た。

「これ、いま貼りましたか」

「貼りました」

「標識には、貼れないんですよ」

 巡査は、私の息子より若い。

「演説会の知らせです。吉永の」

「どこのでも、標識には貼れないです。道路標識なので」

「掲示板は、もう貼ってあるんです」

「掲示板なら、いいんです。これは、標識なので」

 巡査は、自転車を降りて、スタンドを立てた。私が剥がすのを、待った。

 私は剥がした。

 上の二隅は、きれいに取れた。下の二隅は、私が手のひらで押さえたところで、テープが、柱に、よくついていた。紙のほうが先に破れた。テープと、紙の角が、柱に残った。爪で取ろうとした。爪の間に、糊が入った。角は、残った。

「あとで、取っておきます」

 巡査がそう言った。自転車に乗って、広い道のほうへ出ていった。

 私は、破れたポスターを丸めて、残りの五枚と一緒に、持った。柱の、紙の角は、日が当たって、白かった。

 残りの五枚は、貼らなかった。持って、事務所に戻った。誰もいなかった。長机の上に、若い女の字で、紙が置いてあった。原口さんへ、と書いてあって、車で回っています、郵便局前で拾います、と書いてあった。

 私は五枚のポスターを長机に置いて、破れた一枚は、丸めたまま、長机の下のごみ箱に入れた。事務所を出て、歩いた。膝は、午前中より痛かった。

 郵便局の前に立った。窓口に、知らない局員がいた。私が辞めたときにいた局員は、一人もいない。

 車の声が、遠くで、した。

 桜並木のほうから、近づいてきた。マイクの女の人の声で、演説会の知らせを、繰り返している。白い車で、屋根にスピーカーがついていて、窓が開いていて、候補者が、窓から、手を出して振っていた。

 私は、手を上げた。

 車は、こちら側の車線を、ゆっくり来た。候補者は、道の両側に、手を振っていた。右にも、左にも。私は郵便局の前にいて、手を上げていた。候補者の顔が、こちらを向いた。手が、こちらに振られた。それから、向こう側に振られた。車は、ゆっくりのまま、郵便局の前を通って、駅のほうへ行った。

 乗せる前に、手を振った。

 ロータリーで回って、戻ってくる。

了