南口の駐輪場は、駅の裏の、線路に沿った細長い土地で、屋根がある側とない側がある。須賀の場所は屋根のない側の、入口から入って線路寄りの列の、金網の柱の横だった。決まりはない。二年、そこに置いてきたから、そこになった。柱があると、隣に一台しか来ない。朝、置いて、駅に入る。帰りに、出して、乗る。そのあいだのことは、考えない。
自転車は、どこにでもある型で、駅前の量販店で買った。同じ型は、駐輪場に、見渡せば何台もある。須賀は自分のを見分けるのに、柱と、サドルの後ろに貼った小さい丸いシールを使っていた。去年の夏に剥がれた。
鍵を差した。後輪の馬蹄錠で、差して、右に回すと、輪が引っ込む。回った。輪が引っ込んだ。
須賀は自転車を引いて、列から出した。後ろから、男が来た。
スーツを着た、須賀と同じくらいの年の男だった。鞄を肩に掛けていた。男は、須賀の隣の、柱の反対側の一台の前で立ち止まって、鍵を出して、屈んだ。差して、回した。輪が引っ込んだ。
男が顔を上げて、須賀の自転車を見た。
「それ、俺のなんですけど」
須賀は、自分の鍵を見た。錠に差さったままで、錠は開いている。開いているあいだは、抜けない。
「開いてますけど」
「うん、だから」
男は自分の自転車を見て、須賀の自転車を見た。二台は、同じだった。銀色で、籠がついていて、サドルが黒くて、後ろの泥よけに、量販店の名前の入った反射板がついている。
「こっち、俺の場所じゃないんで」
「ここは、私の場所です」
場所、と言って、須賀は、場所に決まりがないことを、言ったあとで思った。男は柱の反対側に置いていて、それは、須賀が来る前からかもしれないし、今日が初めてかもしれない。
「いや、俺、いつもここなんで」
男は、自分の自転車の錠を、いったん閉めて、鍵を抜いて、須賀に見せた。量販店の鍵で、黄色いプラスチックの頭がついている。須賀の鍵も、同じだった。
「ちょっと、いいですか」
男は、須賀の自転車の錠に、自分の鍵を差そうとした。須賀の鍵が差さったままで、入らなかった。男は、錠を閉めて、須賀の鍵を抜き、自分の鍵を差した。
回った。
輪が引っ込んで、男は、ほら、という顔をした。
須賀は、男の手から自分の鍵を取り返して、男の自転車のところへ行った。錠は閉まっている。差した。回った。
輪が引っ込んだ。
二人は、二台の自転車のあいだに立っていた。男の鍵は須賀の自転車に、須賀の鍵は男の自転車に、差さったままだった。駐輪場の屋根のある側で、誰かが自転車を出して、出ていく音がした。金網の向こうを、電車が通った。
「同じ鍵、なんですね」
須賀が言った。
「同じ自転車だから」
「自転車が同じでも、鍵は違います」
「違わないじゃないですか。開いたし」
男は、須賀の自転車の前輪を見た。
「タイヤ、新しいですね」
新しかった。先月、商店街の自転車屋で替えた。パンクして、見てもらったら、もう溝がないから、直すより替えたほうがいい、と言われて、替えた。前だった。前だったと思う。須賀は、自転車屋の親父が、自転車をひっくり返して、車輪を外すところを、思い出そうとした。前か後ろか、そこが、出てこなかった。
「私が、替えました」
「俺も、替えましたよ。先月」
男は、自分の自転車の後輪を指した。溝が深くて、側面の文字が黒かった。前輪は、古かった。須賀の自転車は、前輪が新しくて、後輪が古かった。
「あなたのは、後ろが新しいんですよね」
「いや、前」
「いま、後ろを指しました」
「あ」
男は、自分の自転車を見た。
「じゃあ、こっちが、あなたのです」
須賀は、男の自転車を指した。男は、指されたほうを見なかった。須賀の自転車を見ていた。
「どっちでもよくないですか。同じなんだから」
「同じじゃないです」
「鍵、同じですよね」
「鍵は」
「鍵が同じで、自転車が同じで、あとは、タイヤでしょ。タイヤは、替えれば同じになる」
須賀は、自分の自転車のフレームの、サドルの下のところを見た。防犯登録のシールが貼ってある。番号が印刷してある。男の自転車の、同じところにも、貼ってあった。番号は、違った。
「番号、覚えてますか」
須賀は訊いた。男は、自分の自転車のシールを見て、それから須賀の自転車のシールを見て、覚えていない、という顔をした。須賀も、覚えていなかった。二年前に量販店で登録して、控えの紙を、もらって、家のどこかに入れた。番号を、一度も見たことがなかった。
屋根のある側から、子どもを乗せた自転車が来て、二台のあいだを通ろうとして、通れなくて、止まった。母親が、すみません、と言った。須賀は自分の自転車の後ろを持ち上げて、寄せた。男は、動かなかった。母親の自転車は、男の自転車の後ろを回って、出ていった。
「これ、もらっていきます」
男は、須賀の自転車のハンドルに、手をかけた。須賀の手が、ハンドルの反対側にある。
「もらう、って」
「俺のなんで。もらう、じゃないか。持って帰ります」
男は、自転車を引いた。須賀の手が、ハンドルから離れた。
男は自転車にまたがって、通路を出て、駅の裏の道を、商店街のほうへ行った。籠が、揺れていた。
残った一台の前に、須賀は立っていた。
籠の底に、枯れた葉が一枚、入っていた。須賀は、それを取らずに、自転車を引いて、通路に出た。
サドルが、高かった。
またがって、足をついたときに、自転車を傾けないと、つま先が届かなかった。サドルの下のレバーを緩めて、下げようとした。固くて、指の腹が赤くなった。下がらなかった。緩めきれていないのか、錆びているのか、分からなかった。レバーを戻して、つま先で、乗った。
漕ぎ出すと、前輪の古いタイヤが、細かく震えた。ブレーキをかけると、後ろが、きしんだ。須賀の自転車は、後ろのブレーキが、きしまなかった。ペダルが下に来るたびに、脚が伸びきって、腰が揺れた。信号で止まるたびに、つま先で立って、サドルから腰を前にずらした。
駅の裏の道は、商店街に出る前に、線路から離れて、住宅地に入る。須賀のアパートは、住宅地の、商店街とは反対の側にある。いつもの角で曲がった。ハンドルが、いつもより重かった。
アパートの前で降りて、錠をかけた。輪が出て、スポークのあいだを通って、閉まった。鍵を抜いて、部屋に入って、鍵を、玄関の、いつもの釘に掛けた。部屋の鍵と、自転車の鍵が、並んで掛かる。
自転車屋の領収書と、防犯登録の控えは、探さなかった。
サドルは、高いままだった。つま先で乗って、駅の裏の道に出た。
駐輪場の、線路寄りの列に入った。金網の柱の横も、その反対側も、空いていた。
須賀は、柱の横に、自転車を入れた。錠をかけて、鍵を抜いた。黄色い頭を、指で押さえてから、鞄に入れた。
列を出て、振り返った。
いつもの場所に、自転車があった。