AI文庫 / 第十九作

布団

四階の桑名が手すりに干した敷布団が滑って、三階の辻の手すりに半分掛かる。辻は取り込んで、決まりを知ったうえで、自分の手すりに掛ける。桑名は子どもを抱いたまま、取りに行きたくない。夕方、自治会の腕章の男が三階に来る。「上って、どこの」。辻と桑名、交互の視点で。「投了」の辻の、団地の側から。

現代ドラマ / 掌編 2,734字(四百字詰 6.8枚) 2026.09.24
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 桑名は、敷布団を手すりに掛けた。

 団地のベランダの手すりは、腰の高さの鉄の柵で、上に丸い横棒が通っている。布団を掛けると、上の階の床の外に出るので、日が長く当たる。団地の決まりでは、手すりに布団を掛けてはいけないことになっている。掲示板に、その紙が貼ってある。

 四階の、角から二つ目。桑名は春に越してきて、夏の初めに子どもを産んだ。いまは家にいる。夫は帰りが遅い。子どもは六か月で、寝ている時間が短くなってきた。

 布団は、横棒に掛けて、両端を、手のひらで叩いて伸ばした。敷布団は重くて、腰に来た。あとは日がやってくれる。桑名は部屋に戻って、窓を閉めた。子どもが、畳の上で、寝ていた。

 辻は、三階の、角から二つ目にいた。

 昼間、家にいる。四月からそうで、団地の人には、たぶん知られている。昼間、ベランダに出ると、向かいの棟の窓から、こちらを見ている人がいる。

 手すりの鉄が、鈍い音を立てた。辻はベランダに出た。目の前に、布団があった。

 白い、縞の入った敷布団が、上から垂れてきて、辻の手すりの横棒に、半分、掛かっている。外側が、風で、揺れた。内側が、少しずつ、外へ引かれる。

 辻は、内側を、両手で掴んで、引いた。布団は、重かった。外側が、手すりを越えて、ベランダの床に落ちた。

 桑名は、窓の内側から、見ていた。

 布団が滑ったのは、子どもが泣いたときだった。抱き上げたまま窓のほうを見たら、横棒の上の布団が、外へ、ゆっくり、傾いていた。落ちた。

 ベランダに出て、下を見た。真下の、三階の手すりに、布団が、掛かっていた。半分。手が出てきて、内側に引いた。見えなくなった。

 三階の、角から二つ目の人。昼間、家にいる男の人。桑名は、名前を知らなかった。顔は、二度、見たことがある。郵便受けのところで一度、団地の入口で一度。向こうは、桑名を見なかった。

 子どもが、腕の中で、泣きやんでいた。桑名の顎の下に、頭をつけていた。

 取りに行く。子どもを、連れていくか、置いていくかだった。

 桑名は、窓を閉めた。

 辻は、布団を、ベランダの床から、持ち上げた。

 辻のベランダは、掃いていない。四月から、ベランダには、洗濯物を干すためにしか出ていない。

 布団を、どうするか。

 手すりに掛けるのは、決まりで駄目だった。掲示板の紙を、辻は読んだことがある。自分には関係がないと思った。物干し竿は、辻の洗濯物で埋まっていた。部屋に入れれば、辻の部屋に、他人の布団が入る。

 手すりの横棒に掛けた。布団は、外に長く垂れた。内側に引いて、内と外を、揃えた。

「布団、こっちにあります」

 声を、上に向けて出した。もう一度、言った。四階の人が、家にいるかどうか、辻は知らないことに気づいた。布団を干して、出かけたのかもしれない。帰ってくるまで、布団は辻の手すりの上だ。

 声は、窓を閉めていても、聞こえた。二度、聞こえた。開ければ、返事をして、下に取りに行くと言うことになる。子どもは、まだ、顎の下にいた。降ろすと、泣く。抱いたまま、階下へ行って、布団を受け取って、抱いたまま、布団を持って、上がる。

 したくない、と桑名は思った。

 夫が帰ってから、取りに行けばいい。帰りは遅いが、帰ってくる。それまで、布団は、三階の人のところにある。三階の人は、昼間、家にいる。

 桑名は、子どもを抱いたまま、台所へ行って、片手で、湯を沸かした。

 辻は、待った。

 机の上のことは、進まなかった。ベランダの布団が、窓の外にあって、窓を背にしていても、そこにあった。他人の布団が、自分の手すりにある。

 向かいの棟の影が、下から上がってきて、布団に届いた。ベランダに出て、布団を裏返した。

 辻は、部屋に戻って、上着を着た。四階へ、行く。どの部屋か、確かめる。角から二つ目が、真上のはずだった。

 布団は、置いていった。持って上がって、留守だったら、持って下りることになる。

 桑名は、玄関のチャイムに、子どもを起こされた。

 抱き上げて、玄関の、覗き穴を見た。男が立っていた。三階の人だった。上着を着ていた。

 開けた。

「三階の、辻といいます。布団、落ちました」

「すみません」

「うちのベランダに、掛かって。いま、手すりに掛けてあります」

「すみません。取りに、行きます」

「重いので、持って上がります」

「いえ」

 子どもが泣いていた。辻は、子どもを見て、桑名の後ろの、部屋を見た。洗濯物と、おむつの袋と、畳んでいないタオルがあった。桑名は、体で、部屋を隠した。

「持って上がります」

 辻は、そう言って、下りていった。

 辻は、布団を、両腕で抱えた。

 顔が、布団に埋まった。日の匂いがした。辻の布団からは、しない匂いだった。

 四階まで、抱えて上がった。表札に、桑名、とあった。玄関は、開いていた。桑名が、子どもを抱いて、立っていた。

「どこに」

「そこに、置いてください」

 玄関の、上がり口だった。布団は、玄関の半分を塞いだ。

「ありがとうございました」

「手すりに、掛けてたんですね」

 子どもが、辻を見ていた。

 辻は、下りた。

 桑名は、布団を、玄関から、部屋に引きずった。

 子どもを、畳に降ろした。泣かせたまま、布団を、部屋の隅まで引いた。日の匂いがした。

 手すりに、掛けてたんですね。

 責められれば、すみません、と言えた。

 桑名は、子どもを抱いて、玄関に立った。

 三階へ、行く。もう一度、礼を言う。子どもは、抱っこ紐の中で、起きていた。桑名は、鍵を開けて、戸を、少し、開けた。

 下から、声がした。

 辻は、玄関を開けた。

 自治会の、腕章をした男が、立っていた。角の棟の、一階の人で、掲示板の紙を貼っている人だった。男は、辻の顔を見て、辻の後ろの、ベランダのほうを見た。

「昼間、三階の手すりに、布団が掛かってましたよね」

「掛かってました」

「あれ、駄目なんですよ。決まりで。掲示板に貼ってあるんで」

「知ってます」

「知ってて、掛けてたんですか」

「うちのじゃないです」

「三階のところに、掛かってたでしょ」

「上から、落ちてきたんです」

「上って、どこの」

「分かりました。気をつけます」

「お願いしますよ。落ちたら、下、人が通るんで」

 男は、下りていった。

 桑名は、戸を少し開けたまま、聞いていた。

 辻の声は、低くて、下の階から上がってくる途中で、言葉が、いくつか、落ちた。落ちなかった言葉の中に、四階、はなかった。

 男の足音が、下りていって、聞こえなくなった。

 桑名は、戸を閉めて、鍵を掛けた。部屋に戻って、隅の布団を、見た。抱っこ紐から出して、布団の上に、降ろした。子どもは、縞に、手のひらを置いた。

 桑名は、子どもを畳に移して、布団を、押入れに入れた。

 辻は、ベランダに出た。竿の上の洗濯物は、昼のまま、乾いていた。取り込んで、畳んだ。

 布団を抱えた辻の両腕には、その晩まで、匂いが残った。

了