AI文庫 / 第二十作

土用

「ぬか床」の僕が、二年ぶりに戻ってくる。ばあちゃんの家の梅を、隣の家の脚立を借りて、上の枝から、青いまま全部もぐ。「去年も、そう言ったのが来た」。塩は二割、重石は辞書、土用干しは1Kのベランダ、雨に当てる。干した一つを、ぬか床に埋める。九月、施設で、ばあちゃんが梅干しを食べて、きゅうりを食べて、訊く。六月から九月。

現代ドラマ / 掌編 2,296字(四百字詰 5.7枚) 2026.09.24
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 脚立は、隣の家のものを借りた。

 ばあちゃんの家には、脚立がない。裏の梅の木は、下の枝に手が届いて、上の枝には届かない。去年の六月に、下の枝の実は、誰かが採っていった。

 上の枝には、今年も実がついた。

 隣の家の人は、六十くらいの男の人で、庭に出ていた。僕が塀越しに声をかけると、こっちを見て、梅の木を見た。

「志村さんとこの」

「孫です」

「去年も、そう言ったのが来た」

 僕は、去年の六月には、来ていない。母の名前を言った。ばあちゃんの名前を言った。男の人は、家の裏から、アルミの脚立を持ってきて、塀の上から、こっちに渡した。

「終わったら、塀のとこに、立てかけといて」

 梅は、青かった。

 黄色くなるのを待つものだと、あとで知った。その日は、青いまま、上の枝の分を、脚立に乗って、全部もいだ。手の届く高さまで下りてきた枝の実も、もいだ。籠がないので、持ってきたビニール袋に入れた。

 脚立を、塀のところに立てかけた。男の人は、もう庭にいなかった。

 持って帰った梅を、台所で洗って、へたを、楊枝で取った。それを、袋の分だけやった。

 塩は、梅の重さの二割だと、ネットに書いてあった。秤は、去年の秋に、ぬか床の塩を量るために買った。梅は、秤の皿からはみ出したので、何度かに分けて量った。二割の塩を、袋から出して、ボウルに入れた。

 容器は、ぬか床の琺瑯より一回り小さい、口の広いプラスチックのもので、これも去年の秋に、量販店で買って、使っていなかった。梅と塩を、交互に入れた。重石は、なかった。大学の頃の辞書を、ビニール袋に入れて、載せた。最後に開いたのがいつか、覚えていない。

 ぬか床は、おととしの夏に一度、カビた。上から三、四センチ捨てて、昆布を捨てた。味は、夏の前の味に戻らなかった。混ぜるたびに、戻っていないことが、手で分かる。

 梅酢は、三日で上がってきた。

 容器の底に、透きとおった水がたまって、それが、日ごとに、上がってくる。辞書の袋が、濡れた。梅酢が上まで来ると、梅は、容器の中で、浮いた。辞書で、押さえた。

 日曜の電話で、ぬか床のことを言って、ばあちゃんが、混ぜてるか、と訊いて、混ぜてる、と答えた。ばあちゃんは、去年より、聞き返すことが増えた。混ぜてる、を、二度言った。

 梅は、容器の中で、色が変わっていった。青から、黄色がかった茶色へ。硬さは、変わらなかった。

 土用干し、というのを、やらなければならなかった。

 三日、日に干す。夜は、外に出したままでもいいし、取り込んでもいい。ネットには、両方書いてあった。僕の部屋のベランダは、洗濯物を干すと、それでいっぱいになる幅で、ざるを置く場所はなかった。

 百円の店で、ざるを二枚買った。ベランダの洗濯物をどけて、椅子を出して、椅子の上に、ざるを載せた。梅を、容器から出して、並べた。梅酢が、指を伝って、手首まで来た。乾くと、酸っぱいにおいが残った。梅は、ざるの上で、光った。

 昼に、雨が降った。

 会社にいたので、取り込めなかった。帰ると、ざるの上の梅が、濡れていた。キッチンペーパーで、一つずつ、拭いた。ネットには、雨に当てるな、と書いてあった。当ててしまったあとのことは、書いてなかった。

 また、ざるに並べた。

 梅は、ざるの上で、皺になっていった。硬かった実が、指で押すと、少しへこむようになった。

 梅は、あの、引き出しの中のものに、似てきていた。

 去年の春、ばあちゃんの家の台所の、引き出しの奥で、乾いた黒い粒を見つけた。梅か、何かの実か、分からなかった。ジャム瓶に入れて、持ち帰って、いまも、台所の棚にある。ざるの上の梅を、一つ、その瓶の横に置いた。並べると、僕の梅のほうが、大きくて、色が薄かった。黒い粒は、もっと小さくて、もっと黒い。何年、引き出しにあったのか、分からない。

 八月の土曜に、ばあちゃんの家へ行った。引き出しの、まだ見ていないところが、あるかどうか、確かめに行った。門のところで、隣の男の人が、ごみ袋を持って立っていた。

「梅、どうした」

「干しました」

 男の人は、ごみ袋を持ったまま、道の先へ歩いていった。僕は、裏に回って、梅の木を見た。実は、一つも残っていなかった。

 梅干しを、ぬか床に入れる、というのが、ネットにあった。

 殺菌になる、とも、風味がつく、とも、書いてあった。

 干した梅を、一つ、ぬか床に埋めた。

 手が、いつもより、ゆっくり動いた。梅は、ぬかの中に、すぐ見えなくなった。

 混ぜると、指が、梅に当たる。避けて、混ぜた。

 味は、変わらなかった。一週間、変わらなかった。二週間目に、きゅうりを漬けて、食べて、変わったような気がした。夏の前の味、というのが、どんな味だったのか、僕はもう、正確には、覚えていなかった。

 九月の、最初の日曜に、施設に行った。

 保冷バッグに、タッパーを入れた。おととしと同じ、きゅうりと、なすと、大根。それと、小さいタッパーに、梅干しを、三つ。

 ばあちゃんは、三階の、東向きの部屋で、車椅子に座って、窓を見ていた。

 僕が入っていくと、ばあちゃんは、こっちを見て、保冷バッグを見た。

「ゆうちゃん」

「持ってきた」

 タッパーを開けて、割り箸を渡した。ばあちゃんは、きゅうりを一切れ取って、口に入れた。

 小さいタッパーを、開けた。梅干しが、三つ、並んでいた。

「青かったろ」

「青かった」

 ばあちゃんは、梅干しを、一つ取って、口に入れた。歯で、種から、実を外すのに、時間がかかった。実を飲み込んで、種を、口から出して、タッパーの蓋の上に置いた。

「硬い」

「硬い」

「塩は」

「二割」

「多い」

 ばあちゃんは、もう一切れ、きゅうりを取った。噛みながら、僕の顔を見た。飲み込んだ。

「何、入れた」

了