AI文庫 / 第二十一作

釣り銭

商店街の八百屋、レジはなくて竹のざる。大根とほうれん草としめじで六百二十円。茶色のコートの人が、袋を受け取ってから言う。「五千円出したでしょう」。奥さんは千円だと言い、バイトは見ていなくて、後ろに並んでいた客は、二つに折ったお札の色を、両方思い出せる。ご主人が奥から出てきて、お札を四枚渡す。三人が、同じ午後を語る。

現代ドラマ / 掌編 2,491字(四百字詰 6.2枚) 2026.10.01
文字
組

一

 五千円は、出てないの。

 うちはね、レジがないの。天井から吊るした竹のざるに、千円と、五千円と、小銭を分けて入れてあって、お客さんから受け取ったお札は、いったんざるの縁に挟んで、お釣りを渡してから、ざるに入れる。三十五年、そうやってる。五千円を受け取ったら、五千円の山に行く。千円なら、千円の山。間違えようがない。あの人のお札は、千円の山にある。私が入れた。

 大根と、ほうれん草と、しめじで、六百二十円。千円札を受け取って、三百八十円を渡した。

 あの人は、見たことがない人。茶色のコートで、六十は過ぎてた。買うものを、全部、私に言わせた。これは、と指して、私が、大根、と言って、いくら、と訊いて、私が言う。それを三つ。

 お釣りを渡したら、袋に入れるのをバイトの子に任せて、私は次のお客さんのほうを向いた。次は、よく来る人で、長ねぎを持ってた。

 五千円出したでしょう。

 そう言われたのは、袋を渡したあとなの。もう、私は次の人の長ねぎを見てた。

 千円です、って言った。千円ですよ、って言い直した。あの人は、お釣りの三百八十円を、手のひらに載せて、私に見せた。千円から六百二十円引いたら、三百八十円。五千円からなら、四千三百八十円。私が渡したのは、三百八十円。だから、千円。

 違います、しか言わないの。五千円札を、出しました、って。財布を開けて、見せた。財布の中には、千円札が二枚と、一万円札が一枚あった。ないから出したんだって、あの人は言う。私は、ないから出してないんだと思う。

 バイトの子に、見てたでしょ、って訊いたら、見てなかった。

 うちの人が、奥から出てきたの。

 みかんの箱を開けてた。出てきて、何、って訊いて、私が言って、あの人が言って、うちの人は、ざるの縁に挟んである、さっき受け取ったばかりの、長ねぎの人の千円札を見た。

 お札を四枚取って、あの人に渡したの。

 いいから、って。

 あの人は、四千円を財布に入れて、袋を持って、出ていった。

 長ねぎの人は、ずっと、立ってた。バイトの子は、袋を畳んでた。

 夜、うちの人に、言った。

 五千円は、出てないのよ、って。うちの人は、テレビを見てた。分かってる、って言った。

 三十五年、ざるでやってきて、今日は、間違えてない。減った四千円は、明日の仕入れから出る。

二

 見てなかったっす。

 袋に入れるのが、仕事なんで。おばさんがお釣りを渡したら、こっちは、大根をどう入れるかで、頭がいっぱいで。縦に入れると、はみ出す。斜めにすると、ほうれん草が潰れる。しめじは、もう、どこでもいい。

 ざるに、お札を挟む音って、あるんすよ。縁の竹に、お札を差し込む音。それが、したのは、聞いてた。

 その人は、茶色のコートで、俺が袋を渡したら、受け取るときに、俺の顔を見ないで、袋を見た。お釣りを見た。手のひらの上で。長いこと見てた。おばさんのほうを向いた。

 五千円出したでしょう、って。

 声は、小さくて、俺のほうが近かったから、俺のほうが先に聞いた。おばさんは、長ねぎの人を見てて、二回目で、聞こえた。

 千円です、違います、千円です、違います。おばさんは、計算を言った。六百二十円引いて三百八十円って。その人は、財布を開けて、見せた。俺の位置からは、財布の中は見えなかった。

 おばさんが、俺に、見てたでしょ、って言った。

 見てなかったんで、見てなかった、って言った。おばさんの顔が、何で見てないの、って顔だった。見るのは仕事じゃないんすよ。

 おじさんが、出てきた。

 おじさんは、ざるを見て、四千円、渡した。いいから、って。その人は、受け取って、出てった。俺の横を通って、俺は、どいた。

 俺は、袋を畳んでた。

 おばさんは、長ねぎの人の会計をして、長ねぎの人が出てった。おじさんは、奥で、みかんの箱の続きをしてた。

 おばさんは、間違えない人なんすよ。三十五年って、本人も言うし、実際、俺が入ってから半年、お釣りを間違えたとこ、見たことない。その人のほうも、嘘をつく人に見えたかって言われたら、見えなかった。普通の、年取った人で。

 おじさんがざるを見たとき、俺も、ざるを見たんすよ。おじさんの目の先を、追って。ざるの縁に、お札が一枚、挟まってた。その下の、千円の山は、見えた。五千円の山は、俺の位置から、ざるの手前の縁で、隠れてた。

三

 私は、長ねぎを一本、持って立っていました。

 金子青果には、週に二度ほど来ます。駅の南側に住んで三年で、商店街で野菜を買うのは、スーパーより近いからで、それ以上の理由はありません。奥さんは私の顔を覚えています。

 私は長ねぎを持って、順番を待っていて、前の人の手は、ちょうど私の目の高さにありました。茶色のコートの袖から、手が出て、お札を持っていました。二つに折って、折り目を上にして、奥さんに渡しました。

 色は、分かりませんでした。紫っぽかったような気もしますし、青っぽかったような気もします。思い出そうとすると、どちらの色でも、思い出せます。

 奥さんは、受け取って、ざるの縁に挟んで、三百八十円を渡しました。そこは、見ていました。三百八十円は、百円が三枚と、十円が八枚で、奥さんは、それを一度に手のひらに載せて、渡しました。

 前の人が、五千円出したでしょう、と言ったとき、私は、まだ長ねぎを持っていました。

 長いことになる、と思いました。立っていました。

 奥さんが、バイトの男の子に、見てたでしょ、と言いました。

 私にも、訊かれるかと思いました。奥さんは、私を見ませんでした。

 ご主人がざるを見たとき、私も見ました。縁に、私の前の人のお札が挟まっていました。ご主人は、四千円を渡したあとで、奥に戻りました。

 前の人は、出ていきました。

 私の番になって、長ねぎを出して、奥さんは、百五十円、と言いました。私は、小銭で、百五十円、出しました。奥さんは、小銭を受け取って、ざるの小銭のところに、入れました。縁には、挟みませんでした。

 私は、袋は要らないと言って、長ねぎをそのまま持って、店を出ました。

 その週に、もう一度、金子青果に行きました。ご主人が店に出ていて、奥さんは奥にいました。私が買ったのは、里芋を一袋と、長ねぎを一本でした。

了