六十一になった春に、夜の電話が来るようになった。
台所で洗い物をしている時間に、廊下の電話が音を立てる。出ると年寄りの男の声が、節子、と言う。私は違いますと言って切る。それが四月に二度、五月に三度あって、六月には、廊下に出る前から、あの人だと分かるようになっていた。
声は七十を過ぎていて呂律がいつも少し怪しかった。節子、と呼んでから、こっちが何か言う前に、柿の花が落ちたとか、病院が変わったとか、話し始める。違いますと言うと、ああ、と言うので、私は切る。番号を押し違えているのだと思った。電話機の画面に出るのは、この町の局番の、知らない番号だった。
男は、節子、と言って、今日は暑かったと言った。私は暑かったですと答えた。男は縁側の網戸が外れたと言った。私は直してもらったらいいと言った。男は誰にと言って、それから長いこと網戸の話をした。私は受話器を耳に当てたまま、台所の椅子を廊下まで引いてきて、座った。
節子さんが誰なのか、知りたかった。この人が、節子さんに何を言いたいのかも。
私は節子さんになって、柿の木の話を聞き、病院の新しい先生が若いという話を聞いた。男は私の声を疑わなかった。一度だけ、節子、おまえ声が変わったなと言われて、風邪ですと答えた。男は気をつけろと言って、また柿の話をした。
娘が十月に来て、泊まった晩に、電話が入った。娘が先に廊下に出て受話器を取って、間違いですと言って切った。
「誰」
「間違い電話。春から」
娘は、線を抜いておけばいいと言った。私は抜かなかった。その週はそれきりで、次の週にあって、節子、と言うので、私は娘が来てましたと言った。男はそうかと言った。
十二月に、左の手首を折った。
夜の電話に出ようとして、廊下で滑った。靴下で、磨いたばかりの床の上を台所から走った。電話の音は、私が廊下に倒れているあいだに、止まった。
整形外科の待合室は混んでいた。受付の女の人がどうされましたかと訊いて、私は廊下で転んでと言った。隣に座っていた、私より年上の女の人が腫れた手首を見て、何で転んだのと訊いた。
「電話に出ようとして」
「あら。誰から」
「間違い電話です」
女の人は声を立てて笑って、それなら出なきゃよかったのにと言った。受付も笑った。私はそうなんですと言って、自分の名前が呼ばれるのを待った。
ギプスの腕で、私は次の電話に出た。節子、と男は言った。
「私は、節子さんじゃありません」
男は、節子、ともう一度言った。私は受話器を置いた。
電話は、一月にも二月にも来なかった。私は電話機の着信の記録を一つずつ戻して、あの番号を押した。
若くはない声が出て、私は夜に電話をくださっていた方のお宅ですかと訊いた。女の人は違いますと言って、私が次を言う前に切ったので、私はその音を、右手の受話器で聞いた。